「人生は選択の連続だ」
そう聞いたことがある人も多いでしょう。
進学、就職、結婚、別れ、移住……
まるで人生は、自分の判断と努力によって形作られるかのように思えます。
しかし、少し立ち止まって考えてみてください。
本当に、すべてを自分で選んできたと断言できるでしょうか?
あのとき、どうしてあの選択をしたのか?
なぜあの言葉を選び、なぜあの人を好きになったのか?
なぜ、今その場所にいるのか?
その背景には、家庭環境や教育、出会い、気候や健康状態までもが関係しています。
しかもそれらの“影響”は、本人の意識には上がらないまま、選ばされたように選ばれていくのです。
たとえば、コンビニでおにぎりを選ぶとき。
「今日はツナマヨにしようかな」と思ったとき、
前日にテレビでツナ料理の特集を見ていたかもしれない。
疲れていて味の濃いものを体が求めていたかもしれない。
けれど、本人の頭の中ではただ「自分で決めた」と思っているのです。
つまり、選択の“動機”は、自分以外の要因に支配されている。
この構造に気づくと、人は一瞬、ぞっとします。
「じゃあ、全部決まってたってこと? 自分の人生に自由なんてなかったの?」
――そうです。
運命は、すでに決まっている。
人生は、最初から最後まで“そうなるようにしかならなかった”のです。
けれどここからが、本章の核心です。
そうと知ったとき、なぜか人の心は自由になるのです。
なぜでしょうか?
それは、「失敗」の正体が変わるからです。
たとえば、「あのとき別の選択をしていれば…」という後悔があったとしても、
そもそも“別の選択などできなかった”と知ると、心がスッと軽くなるのです。
努力しなかったことも、無理をしすぎたことも、言ってしまった一言も、黙ってしまった沈黙も、
全部が最善の一手だったという理解に変わる。
これこそが、運命論のもたらす癒しの力です。
そして、この理解は他人にも適用されます。
「あの人はなぜあんな行動をしたのか?」
「なぜ裏切ったのか?」
「なぜ離れていったのか?」
すべては、“そうなるように仕組まれていた”のです。
そして、あなた自身も、“それに遭遇するように仕組まれていた”。
すると、人を恨む理由が少しずつ溶けていきます。
怒りはゼロにはなりませんが、理解とともに少し和らぐのです。
ここには、“あらゆる出来事を正当化する免罪符”のような要素もあります。
しかし、これは“責任の放棄”ではなく、“責任の本質”の理解です。
「わたしがあのとき間違っていた」という言葉に、痛みではなく優しさと微笑みが宿るようになる。
それはまさに、大いなる方が最初から用意していた“運命”という舞台装置のおかげなのです。
この世界のシナリオはすでに書かれている。
でも、その舞台の中で感情を持ち、選ばされた選択に涙し、喜び、悔やむ。
この一連のドラマが、なんと尊く、美しいものであることか。
だから、わたしたちはこう言えるのです。
「もう、何も心配いらないよ」
「すべて、最初から決まっていたんだから」
第8章 運命はすでに決まっている
選択すら“選ばされている”と知ったとき、なぜ心が自由になるのか。運命論がもたらす癒しの力に迫る。

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