第8章 運命はすでに決まっている

選択すら“選ばされている”と知ったとき、なぜ心が自由になるのか。運命論がもたらす癒しの力に迫る。

「人生は選択の連続だ」
そう聞いたことがある人も多いでしょう。
進学、就職、結婚、別れ、移住……
まるで人生は、自分の判断と努力によって形作られるかのように思えます。

しかし、少し立ち止まって考えてみてください。
本当に、すべてを自分で選んできたと断言できるでしょうか?

あのとき、どうしてあの選択をしたのか?
なぜあの言葉を選び、なぜあの人を好きになったのか?
なぜ、今その場所にいるのか?

その背景には、家庭環境や教育、出会い、気候や健康状態までもが関係しています。
しかもそれらの“影響”は、本人の意識には上がらないまま、選ばされたように選ばれていくのです。

たとえば、コンビニでおにぎりを選ぶとき。
「今日はツナマヨにしようかな」と思ったとき、
前日にテレビでツナ料理の特集を見ていたかもしれない。
疲れていて味の濃いものを体が求めていたかもしれない。
けれど、本人の頭の中ではただ「自分で決めた」と思っているのです。

つまり、選択の“動機”は、自分以外の要因に支配されている。

この構造に気づくと、人は一瞬、ぞっとします。
「じゃあ、全部決まってたってこと? 自分の人生に自由なんてなかったの?」

――そうです。
運命は、すでに決まっている。
人生は、最初から最後まで“そうなるようにしかならなかった”のです。

けれどここからが、本章の核心です。

そうと知ったとき、なぜか人の心は自由になるのです。
なぜでしょうか?

それは、「失敗」の正体が変わるからです。
たとえば、「あのとき別の選択をしていれば…」という後悔があったとしても、
そもそも“別の選択などできなかった”と知ると、心がスッと軽くなるのです。

努力しなかったことも、無理をしすぎたことも、言ってしまった一言も、黙ってしまった沈黙も、
全部が最善の一手だったという理解に変わる。
これこそが、運命論のもたらす癒しの力です。

そして、この理解は他人にも適用されます。
「あの人はなぜあんな行動をしたのか?」
「なぜ裏切ったのか?」
「なぜ離れていったのか?」

すべては、“そうなるように仕組まれていた”のです。
そして、あなた自身も、“それに遭遇するように仕組まれていた”。

すると、人を恨む理由が少しずつ溶けていきます。
怒りはゼロにはなりませんが、理解とともに少し和らぐのです。

ここには、“あらゆる出来事を正当化する免罪符”のような要素もあります。
しかし、これは“責任の放棄”ではなく、“責任の本質”の理解です。

「わたしがあのとき間違っていた」という言葉に、痛みではなく優しさと微笑みが宿るようになる。
それはまさに、大いなる方が最初から用意していた“運命”という舞台装置のおかげなのです。

この世界のシナリオはすでに書かれている。
でも、その舞台の中で感情を持ち、選ばされた選択に涙し、喜び、悔やむ。
この一連のドラマが、なんと尊く、美しいものであることか。

だから、わたしたちはこう言えるのです。

「もう、何も心配いらないよ」
「すべて、最初から決まっていたんだから」

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