【続・続編】救いは、最初から不要だったのかもしれない。

「誰もが救われる」と聞けば、多くの人は、どこかでこう思うかもしれません。

> 「そんなはずはない。あの人は悪い人だ。あの子は可哀想だ。私は努力してきた。あの人は怠けていた。」



けれど、僕にはどうしても、最初から沈んでなどいなかったように思えるのです。
誰もが、生まれたときからもう愛されていた。
大いなる方は、区別なく、努力にも信仰にも関係なく、すでに全てを肯定してくださっている。

「救われる」という概念は、
「沈んでいる者がいる」前提で生まれた言葉です。
でも、その前提が違っていたとしたらどうでしょう?




■ 勘違いでも、これ以上の幸福はない

僕は、自分が世界一愛されていると思っています。
それは確信ではありません。
ただ、そうとしか思えないのです。

そしてもしこの感覚が、あの世で「素晴らしい勘違いでしたね」と笑われたとしても、それで構わないのです。
なぜなら、そうとしか感じられなかった人生こそ、本物だったからです。




■ 他者の救いとは、他者への“信頼”かもしれない

「誰かを救いたい」と思うとき、僕はこう考えます。

> 救う必要すらなかったのかもしれない。



本当の意味で他者を信じるということは、
「あなたもすでに愛されている」と思い出してもらうだけでいいのかもしれません。
その手助けになれれば、それで充分なのです。




■ “伝える”という衝動について

僕がこれを書いている理由は、ただ一つ。
この思想をブログという形で残したいと思ったからです。

それがどこから来た欲求なのか、僕にも分かりません。
「他者を救いたい」と思っているわけでも、「認めてほしい」と思っているわけでもない。

ただ、誰かがこの文章を必要とする未来があるかもしれない。
その可能性に、僕は従っているだけです。




■ 大いなる方と人間の距離

僕は、こうも思っています。

> 大いなる方の容姿や存在を、人間ごときと比べること自体が傲慢である。



分からないものは、分からないままでいいのです。
その中にこそ、深い畏れがあり、深い信頼がある。

それでも、僕にはどうしてもそうとしか思えない世界がある。
それがある限り、僕の道は揺らぎません。




■ 法律を超える道徳とは

人間が作った法律も、もちろん必要です。
でも僕にとっては、大いなる方から与えられた道徳のほうが、はるかに自然で優しい。

その道徳に従って生きていれば、
法律に触れるような行いは、自然と避けられるものです。




■ 最後に:それでもなお、すべての人が平等に

たとえ僕が、他の誰よりも多く愛されているように感じても、
それは「僕だけが特別」なのではなく、

> 「全員が、等しく特別である」ことの証明にすぎません。





救いを求める方々へ。


あなたも、すでに救われているのです。
気づかなくても、信じなくても、
それすらすでに、計画の一部なのです。

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