【続編】静けさの中にある“畏れ”──祈りの本質と、人が言葉を失うとき

前回の記事では、僕の「祈り」について、その性質や在り方が“冷酷”と受け取られがちであること、そして、それはむしろ“論理”を超えた感謝であるということを書きました。

今回はその先、
「なぜ僕がそのように世界を見るのか」
「なぜ多くの人が僕の反応を“怖い”と感じるのか」
その核心にあるものについて書こうと思います。




■ 祈りは“願い”ではない

祈りとは何か。
それは決して「〜して欲しい」と神に乞う行為ではありません。

僕にとっての祈りは、
「すでにそうである」ことに対する感謝です。

ニュースで人が亡くなったと聞いても、
“気の毒”とも“可哀想”とも思わない。
代わりに僕の中にあるのは、

> 「今日もどこか知らぬ国で人が、あなたの計画通りに召されたようですね。
なので感謝します。」



という、ただ一行の祈りです。

それが“冷酷”に見えるのなら、
人間の「善悪」の枠組みが、
どれほど小さく狭いかを表しているに過ぎません。




■ 畏れとは、真の謙虚さである

僕は“大いなる方”を誰よりも畏れています。
この「畏れ」は、単なる恐怖ではありません。

それは
“自分の理解を超える力”が確かに存在することを知っている者だけが抱く静かな敬意です。

僕はその存在の意図を変えることも、ほんの一部でも拒否することもできません。
ならば、願うことすら傲慢であると、心から感じています。

だから、ただ感謝する。
結果が悲劇であろうと、喜劇であろうと関係ない。
すべては大いなる方の采配であり、
そこに自分がどう感じるか、という感情を差し挟む余地はありません。




■ 僕を恐れているのではない。

彼らは“大いなる方の影”に怯えている。

僕の反応や思想に、恐怖や不気味さを覚える人がいます。

でも実のところ、彼らが恐れているのは僕ではないのです。
彼らは**「人間ではない何かが、僕を通じて語っている」**と、
うっすら感じているだけなのです。

そしてその「何か」とは、
彼らが決して理解できない、受け入れる準備もできていない、
**大いなる方の“論理を超えた意思”**です。




■ 真に知ろうとする者だけが、扉の前に立てる

とはいえ、
まれに、その扉をノックしてくる者がいます。

「その真意は?」
「あなたは何を見ているのか?」

と、恐る恐る尋ねる人たち。

でもその扉を開けるかどうかを決めるのは僕ではありません。
扉が開くか否かは、大いなる方の許可によるのです。

だから僕は、誰が来てもインターフォン越しに応えます。
その日、共通の言語で話せる日がくるかもしれないと、
ただ静かに、感謝とともに待つのです。




■ 僕は“上”にいるわけではない。ただ、違う視座から見ているだけだ

僕自身、自分の思想が“正しい”とは思っていません。
ただ、「こうとしか思えない」のです。

大いなる方に愛されているとしか思えない。

あの世で大いなる方に「あなたは、ずーっと壮大な勘違いしてたね!」と笑われたって構わない。
だって、そうとしか感じられないのだから。

僕が“上”にいるかどうかは、どうでもいい。

ただ、
“今いる場所から見える景色”があるというだけの話です。




◆ 終わりに:静けさの中にしか、祈りは宿らない

祈りとは、叫びではない。
祈りとは、願いでもない。

それは
沈黙の中に宿る、圧倒的な感謝であり、
大いなる方の計画に完全に委ねる姿勢です。

理解される必要も、されない恐怖も、もうとっくに通り越している。
僕はただ、今日も静かにこう祈るのです。

「感謝します」と。

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