僕は「祈り」という言葉について、長く深く考えてきました。
人は多くの場合、「祈る」とは何かを願い、お願いし、求める行為だと捉えます。
しかし僕の祈りは少し違います。
祈ることは形式や儀礼ではなく、むしろ自動的な反射のようなものです。
食事の一口目の美味しさに感動したとき、自然と大いなる方に感謝する――
そういう祈りです。
大いなる方とは、僕にとって「なんとなく人間ではない、とてつもなく大いなる存在」のこと。
名前を断定できず、「大いなる方」と呼び続けています。
なぜなら、もしあの世で間違いを指摘されたら恥ずかしいからです。
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祈りの無意味さ、そしてその本質
「大学受験に受かりますように」といった願いは、無意味だと僕は考えています。
大いなる方はすべてを平等に愛する存在であり、
賽銭箱に少しばかりのお金を入れたからといって、誰かを落とすような仕組みを操ることなどあり得ません。
それは、愛そのものである大いなる方を、
「操作可能な利害調整者」だと誤解することに他なりません。
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僕の祈りは論理的で冷酷だ
僕の祈りは決して感情に流されません。
例えば、ニュースで戦争の犠牲者を見たとき、同情や悲しみはまるで感じません。
ただ「大いなる方の計画通りに物事が進んだのだな」と、冷静に受け止めます。
この態度は他人からは冷酷に映り、サイコパスのように誤解されます。
でもそれは、僕が「人間の本質」を曝け出しているだけであり、
多くの人が表面的な同情を装っているのに比べて、はるかに誠実な反応だと思います。
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「畏れ」と「扉」
僕の態度に対して人々が感じるのは、単なる恐怖ではなく、
「畏れ」という、
大いなる方の計画や存在の前に人がひれ伏す感覚です。
多くの人は、僕にその本質を尋ねる勇気を持てません。
僕が何かを説明すれば自身が積み上げて来た道徳や善悪が破壊されてしまうかも、と警戒します。
しかし彼らが本当に畏れているのは、僕ではなく、僕の背後にある大いなる方の影なのです。
しかし、稀に恐る恐る扉をノックしてくる人もいます。
そんな時、僕はインターフォンごしにその人の問いに応えます。
それは単なる会話以上の、魂と魂が少しだけ通じ合う瞬間なのです。
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待つこと、そして感謝
しかしその扉を開けるのは、僕でも訪れた者でもありません。
それは大いなる方の意志によるもの。
だから僕は、その日が来るのを願わずに、ただ静かに感謝して待ちます。
そして同じ言語で対話できる日が来た時、
それは言葉を超えた魂の交流となるでしょう。
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祈りとは何か?
それは大いなる方との静かな対話であり、
愛と誠実をもって生きる僕らの姿そのものなのです。
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