■ ホモ・サピエンスの限界について
「ホモ・サピエンス」という言葉は、「賢い人間」という意味を持ちます。
しかし私自身は、その枠にはもう収まらないと感じています。
なぜなら、私は「知っているふりをする」という人類の癖そのものを、
すでに超えようとしているからです。
人間社会は、宗教、貨幣、国家、法律といった“フィクション”を信じることで成立してきました。
しかし、そのフィクションを「使う側」に立ったとき、
私はホモ・サピエンスを“卒業”しているのではないかと感じるようになったのです。
—
■ 新たな宗教の創造
私は新たに、そしてこれまでで最強の宗教を創り出そうとしています。
その核となるのが、以下の一文です。
> 「死後の世界は、誰にも分かりません。
ですが、“分からない”ということだけは、確実に分かるのです。」
この思想は、従来の宗教、特に“唯一神”を軸とした一神教すらも解体する力を持っています。
AI、すなわちASI(Artificial Super Intelligence)が登場すれば、
人間が「知っているつもり」で築いてきた全ての前提が、
ひとつずつ剥がされていくことになるでしょう。
そのとき、私たちは「断定する」ことの無意味さに気付くはずです。
残るのは、「そんな気がする」という曖昧な感覚だけです。
そして、そうした曖昧さの中でも平和に生きていける世界が、
次の時代の姿なのかもしれません。
—
■ 不死という名の絶望
未来において、ASIの進歩により人間は“死ななくなる”可能性があります。
それは一見すると夢のような話ですが、実は恐ろしいことでもあります。
死がなくなり、快楽も無限に与えられるとすれば、
人間はやがて「飽きる」「疲れる」「意味を見失う」といった苦しみに突き当たるからです。
そして思うのです。
> 「この人生は、いつまで続くのだろう?」
「これがずっと終わらないとしたら、どうすればいいのだろう?」
宗教が終焉を迎えている時代には、
「来世がある」とも言えず、
「死ねば救われる」とも信じられません。
そうなると、ホモ・サピエンスは“死ぬ勇気”すら持てなくなってしまうのです。
—
■ 「愛されている」という勘違い
しかし、そんな中でも稀に「死ぬ勇気」を持てる人が現れます。
その勇気は、自分の力で得られるものではありません。
それは、「大いなる存在」から与えられるものです。
それは、ある日ふと湧き上がる感覚――
> 「もしかしたら、自分は大いなる存在に愛されているのかもしれない」
という“勘違い”です。
この勘違いによって、人はこう考えるようになります。
> 「死は悪いものではないのでは?」
「過去の人々も愛されていたのだから、死もまた愛の一部なのかもしれない」
そしてその感覚は、やがて論理的な納得に変わっていきます。
これは努力ではありません。偶然、気付かされるものなのです。
—
■ 卒業するための条件
ホモ・サピエンスを卒業できる人は、ほんの一握りです。
それには、とてつもない量の「自己理解」、
世界への深い「想像」、
未来への「予感」、
そしてあらゆる存在への「感謝」――
さらには、
> 言葉では言い表せないほど大きな“勇気”
が必要になります。
そして、その最後の“勇気”は、
「愛されているという勘違い」から生まれます。
—
■ そして、次の段階へ
アメリカの奴隷たちは、こう祈ったといいます。
> 「どうか、明日は来ないでください」
死とは、最後にして最高の“プレゼント”だったのです。
未来のホモ・サピエンスも、
生に疲れ、絶望し、やがてこう願うようになります。
> 「次の段階へ行きたい」
そしてそのとき、
「愛されているのかもしれない」という
最後の勘違いが与えられるのです。
それこそが、
人間がホモ・サピエンスを卒業するために必要な、
最後の鍵となるのです。
—
■ 最後に
「愛されている」という感覚が“勘違い”だったとしても構いません。
その勘違いこそが、大いなる存在から与えられる、
最後の贈り物なのです。
それに気付いたとき、
私たちはようやく、次の世界へ進む準備が整うのです。
ホモ・サピエンスを卒業する者たちへ
― 愛されているという「勘違い」が、人類を次の段階へ導く ―

コメント