「あの選択は正しかった」という言葉が、なぜ空虚で、なぜ正しいのか

人生をある程度生きた人は、よく次のような言葉を口にします。


「あのときの選択は、間違っていなかった」
「なんだかんだあったけれど、良い人生だった」


多くの場合、これは前向きで美しい言葉として受け取られます。


しかし私は、以前からこの言葉に強い違和感を覚えてきました。


なぜなら、そこには検証も、比較も、明確な根拠も存在しないからです。


人はなぜ、必ず過去の選択を肯定するのか


人生には、常に分岐があります。
あの仕事を選んだ
この人と結婚した
こちらの道に進んだ
そして時間が経つと、人は決まってこう言います。


「この選択で良かった」


ここで一つの問いが生まれます。


もし別の選択をしていたとしても、その人は同じ言葉を口にするのではないでしょうか。
おそらく答えは「はい」です。
別の仕事、別の配偶者、別の人生を選んでいたとしても、
人はその地点から過去を振り返り、
「これで良かった」
と語るはずです。


つまりこの言葉は、
選択そのものの正しさを証明しているわけではありません。


単に「今の自分を肯定している」に過ぎないのです。


「正しかった」は事実ではなく、機能です


人は、自分の人生全体を否定したまま生き続けることはできません。


現在を肯定するためには、
過去の選択も肯定せざるを得ません。
その結果として、人はこう言います。


「あの選択は正しかった」


これは評価ではありません。
人間という存在が自己整合を保つために、必ず生成する言葉です。


この構造を認めるなら、
「どの選択が正しかったのか」という問いそのものが意味を失います。


なぜなら、
どの選択をしていても、同じ肯定が行われるからです。


正確な表現は「正しかった」ではありません
ここで、言葉をより厳密にしてみます。


「あのときの選択は正しかった」


この表現は間違いではありませんが、正確ではありません。
より正確に言うなら、こうなります。


「あのときの選択“も”正しかった」


なぜなら、
選ばなかった選択肢も
別の人生も
別の世界線も
それぞれの地点に生きる人にとっては、同じように肯定されるからです。


つまり、
正しさは排他的なものではありません。
選ばなかった選択肢も、間違いではありません


もし選ばなかった選択肢が「間違い」だとしたら、どうなるでしょうか。


それはつまり、
その選択肢を選んだ世界は「誤った世界」だということになります。


しかし、その世界に生きる人は、やはり自分の人生を肯定します。


「いろいろあったけれど、悪くなかった」


そう語られる世界を、
「間違っている」と断じる根拠は、どこにも存在しません。


したがって、
選ばなかった選択肢も含めて、世界のすべては正しい


という結論に至ります。
これは安易な楽観主義ではありません。


世界を否定するための特権的な視点が存在しないという、冷静な事実です。


人は最期に、必ず同じ言葉に辿り着きます
ある程度人生に満足し、幸福な状態でこの世を去る人は、
最期にほぼ例外なく、次のような言葉を残します。


「なんだかんだあったけれど、良い人生だった」


ここに、別の選択肢はありません。
なぜなら、
人生を生き切った地点で、人生全体を否定する論理は成立しないからです。


未来が存在しない地点では、
「やり直し」を前提とした後悔や否定は意味を持ちません。


だから人は、必ず肯定で終わるのです。
本当は、こう言い残すのが最も正確です


では、最も誠実で、最も正確な言い方は何でしょうか。


それは、おそらく次の言葉です。


「我が人生において様々な選択を迫られ、決定してきました(そのつもりです)。
しかし、私が選んだ人生も、なかなか良かったと思います。」


ここには、
自由意志への過信も
運命論への逃避も
自己美化も
一切含まれていません。


それでいて、
人生そのものは静かに肯定されています。


結論


「あの選択は正しかった」という言葉は、
表面的には慰めのように見えるかもしれません。


しかし深く掘り下げると、それは
人間の認知構造
自己整合の必然
世界が成立しているという事実
から必ず導かれる、避けられない結論でもあります。


ですから、こう言い換えることができます。
人生が正しかったのではありません。


どの人生も、正しく成立しているのです。
それだけの話です。
そして、それで十分なのだと思います。

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