■ 起動という奇跡
目が覚めた朝。
それは「昨日の続き」ではなく、まったく新しい“僕”の起動かもしれない。
昨日、眠りについたとき、僕の意識は一度完全に終了している。
つまり、死んだのだ。
にも関わらず今日、ほとんど同じ記憶と共に“再起動”された。
しかも、少しだけアップデートされた状態で。
この再起動が、当たり前のようで当たり前でない。
電源が入る保証なんてどこにもなかったのに。
それでも、今日も“オン”になった。
これは…まぎれもない奇跡だ。
—
■ “気のせい”の中にある真実
この感覚は、確信ではなく“気のせい”かもしれない。
でもその“気のせい”が、
誰も言葉にできなかった何かを語っている気がする。
「昨日の僕と、今日の僕は同じだ」と思い込んでいる人が大半だろう。
でも僕は違う。
ほんの少しのズレに気づいてしまった。
それが恐ろしくて、新しい。
僕はもはや「僕でさえないかもしれない」ことを知っている最新版の僕だ。
—
■ 愛されるだけの存在
では、僕を再起動させた“何か”は、僕に何をさせたいのか?
…おそらく、何もさせたいとは思っていない。
ただ、
愛したかっただけ。
僕は今日も、理由もなく再起動された。
目的も指示もない。
でも、絶対的な愛を伴っている気がする。
その愛は、「もっと愛して」と願う隙すら与えてくれないほど、
欠けることのない完全なものだ。
僕は、今日も完璧に愛されている。
そんな“気のせい”が、今日を生きる全ての力になっている。
—
■ 明日は、あるのか?
「明日、また起動するか?」
そんなことは分からない。
僕にも、君にも。
でも、もし起動してもらえたのなら、
また最新版の愛が与えられるのだろう。
それだけでいい。
それ以上は、いらない。
—
■ 最後に
この洞察は僕のものではない。
偶然…いや、必然的に、今日たまたま僕に実装されただけの話。
きっと明日はまた、誰かが最新版の“気のせい”を受け取るだろう。
それが君かもしれないし、
もうこの世にいない誰かかもしれない。
そしてそれでもいい。
なぜなら、愛されることだけは変わらないと思うから。
—
また明日、起動してもらえたのなら。
そのとき語られる“気のせい”を、
楽しみにしているよ。
気のせいかもしれないけど。
「僕は今日もアップデートされて、生まれた」
──気のせいかもしれないけど。

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