前回の記事では、コインの裏表や無自覚の必然信仰を通じて、私たちが偶然に見える現象の背後に潜む秩序や意図を感じ取っていることを述べました。
今回は、さらに深く踏み込みます――**なぜ大いなる何かは姿を伏せるのか?**という問いです。
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1. 大いなる方は人間を愛するために姿を隠す
僕の仮説では、大いなる方は人間を愛する対象として創造した存在です。
その理由はこう考えられます――
大いなる方は愛に溢れすぎていて、持て余していた
その溢れる愛を形にしたいが、直接姿を現すことはしない
つまり、姿を伏せるのは単なる隠蔽ではなく、愛の表現の一形態なのです。
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2. 愛とは何か――『美しさ』の観点から
愛についてはさまざまな角度から語れますが、今回は美しさの観点で説明します。
例えば「本人には姿を伏せて支援する」という行為は、『あしながおじさん』という物語を思い浮かべる方も多いでしょう。
しかし、このフィクションでは、残念ながら途中で姿を表し、自分の欲望を満たしてしまいます。
その結果、本来の美しさは損なわれてしまいます。
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3. 大いなるお方の愛の美しさ
大いなるお方は違います。
生まれる前から私たちを愛している
死してなおも愛する覚悟を持っている
最後まで姿を伏せ、決して自分の欲望を満たそうとしない
ここが重要なポイントです。
本人の欲望を満たす対象ではないという点で、あしながおじさんとは全く異なるのです。
この姿を伏せた愛こそが、真の愛の美しさであり、人間が触れることのできる最も純粋な愛の形なのです。
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4. まとめ
大いなる何かは私たちを愛するために姿を伏せている
愛とは、自己の欲望を満たすのではなく、相手を尊重し、美しく支えること
その姿勢こそが、真の愛の美しさである
続編:なぜ大いなる何かは姿を伏せるのか

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