新説:思い出なんて、ない方が良い

1. はじめに

多くの人は「思い出は人生の宝物だ」と信じています。
卒業旅行、初恋、家族との時間──それらは幸せを彩るものだと。
しかし私は、あえて言います。

> 思い出なんて、ない方が良い。



これは単なる過激な挑発ではありません。
「ある状態」と「ない状態」を比較したうえで、
ないほうが相対的に幸福度が高い、という立場です。




2. 「ある派」の主張と、その限界

思い出を持つことのメリットは、一般に次のように語られます。

1. 危険を避けるための学習


2. 経験からの成長


3. 人生を豊かにする


4. 自分史を語れる



しかし、これらは思い出固有の価値ではありません。

危険回避は、習慣や教育で代替可能です。

成長は、実用的な学びや訓練からも得られます。

豊かさは思い出ではなく、現在の体験の質で決まります。

自分史は、多くの場合、他人にとって興味のない“自己満足”に終わります。


さらに思い出には、不平等の問題もあります。
裕福な家庭の子どもは海外旅行を思い出に語れますが、貧困家庭の子にはそもそも機会がありません。
それは「贅沢品」であり、万人に平等ではないのです。




3. 「思い出がある」ことの弊害

思い出は美しいものばかりではありません。
人は強烈な体験を忘れられず、それがトラウマや偏見の原因となります。

例えば、会社の雑談で「あなたの1番の思い出は?」と聞かれたとしましょう。
その人の答えが「父に瀕死になるまで斬りつけられたこと」だったらどうでしょうか。
それは確かに“1番”かもしれませんが、聞き手は重すぎて受け止められません。

こうした摩擦は、思い出が存在するからこそ起こります。




4. 訪問介護で見た「思い出ゼロの幸福」

私は訪問介護の仕事で、認知症の男性を担当したことがあります。
彼は忘れっぽく、私の顔は思い出しても、私が何者かは覚えていません。

だから私が介助すると、毎回こう言います。

> 「ありがとう」



彼にとって私は「なんかよく分からないけど、笑顔で親切にしてくれる人」。
お金を払っていることも、これが業務であることも、知らない。

結果、そこにあるのは“純粋な感謝”だけです。
もし彼に記憶があれば、「仕事なんだから当然」というフィルターがかかり、感謝は薄れたでしょう。




5. 循環する幸福

この関係では、私もその感謝を素直に愛せます。
そこに裏はなく、利害もない。
だからこちらも無条件に好意を返せる。

こうして、思い出や記憶がないからこそ、
好意と感謝が摩耗せず、永遠に循環し続けるのです。
このような持続型の幸福は、普通の人間関係ではほとんどあり得ません。




6. 結論

思い出は美化されることもありますが、同時に偏見・不平等・摩擦・トラウマの温床にもなります。
そして、思い出がない状態こそが、純度の高い感情と持続する幸福をもたらす。

だから私は、こう結論づけます。

> 思い出なんて、ない方が良い。






これが私の「思い出不要論」です。
反論があるなら、ぜひ聞かせてほしい。
しかし、この論と実例を前にして、立ち続けられる“ある派”は、そう多くはないでしょう。

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