晴れ男は、たしかに雨男より優れた在り方です。
しかし、この物語にはもう一段、
その“上”の世界が存在します。
それが、**「雨すら降らない男」**という境地です。
—
これは、“天候を操作する男”という意味ではありません。
天気予報を外す超常能力でも、
気象を操る神秘の力でもないのです。
それはもっと静かで、柔らかで、
生き方そのものが“世界の受け取り方”を変えてしまうような話です。
—
たとえばこういうことがありました。
外では確かに雨が降っていました。
天気予報も当たり、傘を差して出かけました。
けれど、私はふと、こう思ったのです。
> 「あれ? 今日って……雨、降ってたっけ?」
傘を差して車に乗り、
買い物を済ませて、濡れずに帰ってくる。
そうすると、まるで最初から雨などなかったかのように思えてくるのです。
—
これは、ただの記憶違いではありません。
現実を直視しないご都合主義でもありません。
それは、**「雨であっても、自分の世界は濡れていない」**という感覚なのです。
—
ある人が言いました。
> 「君は雨が降ると思ったから傘を差したんでしょ?
つまり、雨を認めてるじゃないか」
その問いに、私はこう答えました。
> 「ではお尋ねします。
あなたは、私が雨でびしょ濡れになっている姿を、
一度でも見たことがありますか?」
彼は黙り込んでしまいました。
—
この境地に至った私にとって、
「雨が降ったかどうか」は、もはや問題ではないのです。
現象がどうであれ、
それをどう“体験するか”は自分で選ぶことができる。
この心の在り方が、「雨すら降らない男」の正体です。
—
そして、ある日さらにこう聞かれました。
> 「じゃあ、その濡れたのは何?
空の天使が、じょうろで水をかけたとでも?」
私は少し笑って、こう答えました。
> 「かもしれませんね」
—
この「かもしれませんね」が放つ力は、想像以上に大きいのです。
なぜなら、その可能性は誰にも否定できないからです。
証拠もなければ、否定の証明もない。
だからこそ、世界に“もうひとつの視点”を持ち込むことができるのです。
—
「雨すら降らない男」とは、
天候に勝った人ではありません。
“世界の解釈権”を自らの手に取り戻した人です。
自分の中に軸があり、
他人の言葉にも、天気にも、揺るがされず、
そして誰よりも自由に世界を歩いている人。
—
たとえば、あなたが私と一緒にいる日に雨が降ったとしても――
その日、ふとあなたの口からこんな言葉が出たとします。
> 「あれ? 雨、降ってるけど……なんか降ってない気がするな」
そのとき、あなたもきっと、
“雨すら降らない世界”への入り口に立っているのだと思います。
—
あなたがどんな天気の中にいても、
自分の心に晴れ間をもたらせるなら、
きっと、世界もまたそれに応えてくれるでしょう。
それが、「雨すら降らない男」という在り方なのです。
☁ 後編 晴れ男にはさらに上位互換がある。
それは――【雨すら降らない男】です。

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