さて、人が自由と思ってるものは錯覚である、という概念について実験を行いたいと思います。
今、このブログを読んでいるあなた自身が被験者です。
さあ、今から次の5つの行動のうち、自由に1つを選んで実行してください。
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【選択肢】
飲み物をひと口飲む
軽くストレッチをする
トイレに行く
何もせずこのブログを読み進める
目を閉じて、1分間じっとしてみる
【では、実行して下さい】
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【どうでしたか?】
あなたが選んだ行動は、「自分で決めた」と思えたはずです。
でも、本当にそうだったのでしょうか?
以下に、それぞれの選択に込められた“仕掛け”を暴いてみます。
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飲み物を飲んだ方へ
→ 「喉が渇いていた」という身体的な状態に誘導されていませんか?
ストレッチをした方へ
→ 「最近ずっと動いてなかったから」という時間と習慣の感覚に影響されていませんか?
トイレに行った方へ
→ 「近くてちょうど良かった」という利便性や身体状況が優先されたのでは?
何もしなかった方へ
→ 「ほかは面倒だった」「これが一番何も考えなくて済んだ」——
つまり、消去法で残っただけでは?
目を閉じた方へ
→ あなたはかなりの少数派です。
なぜなら「たかがネット記事に1分も使いたくない」と、多くの人が無意識に**“時間コスパ”の奴隷**になっているから。
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【実験の結論】
私たちは選んだように見えて、
選ばされていたのかもしれません。
「自由に選べ」と言われたにもかかわらず、
感情、習慣、時間、身体、場の空気、他人の視線、すべてに影響されていたのです。
つまり、これは「錯覚された自由」だったのでは?
では、次の疑問に進みましょう。
「ではその“影響”とは何か?」
それは、しばしば感情として表出します。
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