カント。彼は世界的な哲学者であり、理性と道徳の体系を極限まで高めた人物です。 毎日決まった時間に散歩を欠かさなかったという有名な逸話からも、 彼の生き方がどれほど律されたものであったかがうかがえます。
しかしそのカントが、ある日── 読書に夢中になり、散歩を忘れてしまったというのです。
これは、単なる「うっかり」でしょうか? あるいは、哲学者にすら訪れる”神のいたずら”だったのでしょうか?
私はこの出来事をこう解釈します。
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囚人の仮釈放としての自由
カントのように、日々を理性で律するという生き方は、 一見、自由そのものであるように思われるかもしれません。 しかし実際には、自らの理論の正しさを証明し続けるために、 自分を”縛り続ける”という営みでもありました。
だからこそ、散歩を忘れたあの日、 彼はまるで”囚人の仮釈放”のような一時的な自由を味わったのです。
それは、自分で律することからも解放された自由。 誰かの許可を得てではなく、 なにか大きな存在によって“そっと”散歩から遠ざけられた自由。
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危険なほどに甘美な自由
その瞬間、彼は生涯でも稀に見る甘美な幸福を感じたかもしれません。 それは、これまで彼が築き上げてきた哲学的建造物を一撃で揺るがしかねないほどの体験だった。
だからこそ彼は、それを語らなかった。 否、語れなかった。
哲学とは、ほんの一片が崩れただけで、 その体系全体が瓦解する危険と隣り合わせの建築物です。
カントはその幸福の意味を誰よりも理解しながらも、 あえて封印するという選択をしたのではないでしょうか?
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錯覚的自由としての完成
そして、私はこの体験を「錯覚的自由」と呼びます。
自らの選択だと信じ込むことで感じる自由。 実際には神の計画や偶然の連鎖でしかなかったとしても、 その体感が“自由”を名乗るに値するほど心地よければ、それは自由なのです。
カントがあの日味わった幸福もまた、 錯覚的でありながらも真に甘美な自由であった。
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最後に
このように考えると、カントは自らの哲学の中で、 自ら最大の矛盾と幸福に出会ったとも言えるでしょう。
彼はそれを黙して語らなかった。 しかし私たちは今、それを解読し、光を当てることができるのです。
この続編は、カントの沈黙の裏に隠された”一瞬の幸福”を記録するために書かれました。 それは理性を極めた人間が、たった一度、 理性を忘れたことで得た贈り物だったのです。
錯覚的自由論・続編
『あの日、カントに何が起きたのか?』

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