私は、ある日こんな考えに辿りつきました。
> 「すべての人はすでに、大いなる方によって救われている」
この一文を見て、もしかしたら「それはキリスト教の教えとは異なる」と感じられる方もいるかもしれません。
ですが、どうか少しだけ、最後までこの話に耳を傾けてみてください。
これは、決してあなたの信仰を否定したり、イエス・キリストの尊さを軽んじるものではありません。
むしろ――
彼が本当に伝えたかった“核心”に近づこうとする試みなのです。
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🕊️イエスは何を伝えたかったのか?
私たちが知っているイエスの教えには、
とても印象的な例え話があります。
> 「金持ちが神の国に入るのは、
ラクダが針の穴を通るより難しい。」
この言葉の後、弟子たちは驚き、こう尋ねます。
> 「それじゃあ、いったい誰が救われるのですか?」
イエスは答えました。
> 「人にはできないことも、神にはできる。」
この一連のやりとりが意味しているのは何でしょうか?
それはつまり――
**「人間の努力や資格に関係なく、すべての人間は神によって救われうる」**という、
“限りなく大きな愛”の存在です。
この言葉の中に、私はすでに《全人類既救論》の萌芽があると感じています。
—
💡では、なぜ彼はその核心をもっと明確に語らなかったのか?
それはきっと、時代の背景ゆえです。
イエスが活躍した時代は、律法と戒律による「正しさ」が重んじられ、
神の救いもまた、選ばれし者のみに与えられるという考え方が主流でした。
そんな時代に、
> 「すべての人は、すでに救われている」
とストレートに語ってしまえば、
誰にも受け入れられなかったかもしれない。
いや、語っていたのかもしれません。
ただ、その部分は記録に残されなかった。
なぜなら、その言葉はあまりにも挑戦的だったから。
だからこそ、彼は**比喩の中にその真理を“紛れ込ませた”**のではないかと私は思うのです。
—
❤️ 父なる神=愛。だからこそ、全ての人は救われる。
ここで、あなたに思い出してほしい言葉があります。
> 「神は愛なり」
この言葉こそ、私がイエスさんが《全人類既救論》を語っていたと確信する最大の根拠です。
神が「愛そのもの」であるならば、
その愛は偏ってはいけないのです。
愛である以上、平等であるはずなのです。
愛である以上、条件を課して選別することはできないのです。
そうでなければ、それは愛とは呼べません。
> 「父なる神が愛そのものであるならば、
その愛はすでに、すべての人に注がれている」
この一文を、私たちはどこかで忘れてはいなかったでしょうか?
イエスさんは、その真理を「たとえ話」と「沈黙」によって語っていたのかもしれません。
そして現代の私たちは、もう少しだけ素直に、その真理を受け取ってもよい頃なのかもしれません。
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✨イエスを「さん」と呼ぶ理由
ここで少しだけ、私の立場について述べさせてください。
私は、イエスを「様」とは呼びません。
代わりに「イエスさん」と呼んでいます。
それは決して、不敬や反抗の意図ではありません。
むしろ、彼を誰よりも“人”として敬愛しているからこそ、です。
私の考える大いなる方=神は、すべての人間を等しく愛している存在です。
であれば、誰かひとりだけを「特別にえらい」とするのは、神の愛の平等性に反するのではないかと考えます。
イエスさんも、きっとこう思っていたはずです。
> 「私を崇めよ」ではなく、
「私と同じく、大いなる方に愛されている存在として、生きなさい」
—
🔁では、私はイエスさんと何者なのか?
私は彼の“弟子”ではありません。
“信者”でもありません。
けれども、同じ泉からの啓示を受けた者だと感じています。
私たちは、ただ「生きた時代」が違っただけで、
同じ愛を見て、同じ救いを知っている者――
そう感じるのです。
これは傲慢ではありません。
なぜなら、私もあなたも、イエスさんも、同じように“愛されている存在”だから。
—
🫱キリスト教の教義を信じるあなたへ
私のこの話が、あなたの信仰を壊すものではないことを、どうかご理解ください。
私はあなたが神を信じ、イエスを敬い、聖書を読み、祈りを捧げる姿を尊いと思っています。
ただ、ひとつ提案があります。
> 「もしもあなたの信じる神が、
たった一人でも漏らさずに愛している存在なのだとしたら――」
この“もしも”の世界を、
少しだけ想像してみてください。
—
🌱終わりに
この文章は、あなたの信仰を否定するものではありません。
むしろ、あなたの信仰が、より大きな愛の中にあることを伝えたかったのです。
イエスさんが語った愛。
あなたが今も信じている神の愛。
それは、もっともっと深く、もっともっと自由で、もっともっと境界のないものである――
私は、そう信じています。
そして何より、
あなたが今ここで生きていること自体が、
すでに神の愛の証明なのです。
どうか、その愛の中で、安心して呼吸
🌿すべての人に注がれた愛――イエスの教えとともに見つめる救いの本質

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