錯覚の中にこそ、自由の香りがある

〜カントと錯覚的自由論〜

かつて、ドイツの哲学者イマヌエル・カントは、理性と道徳を柱に据え、人間には「自由意志」があると説いた人物です。
彼の名は、正確すぎる生活リズムでも知られています。
毎日同じ時間に散歩に出かける。まるで時計の針のように正確に。
それは彼が自らの意志で自律し、理性をもって己の人生を導くことができるという、彼の哲学の実践でもあったでしょう。

しかし、そんな彼が一度だけ散歩に出なかった日があります。
あまりに夢中で読みふけった一冊の本のせいで、時間を忘れたのです。
この逸話は、彼の思想に対して「神の意志」という別の次元の力が微笑んだかのような、ひとつの象徴でもあるように感じます。




神の意志と人間の自由

カントにとって、道徳法則とは「理性によって立てられる普遍的法則」であり、それに従うとき人は「自由」であるとされました。
しかしその「自由」は、神(カント自身も信仰者であり、神の存在を認めていた)という絶対者の計画から“逸脱する”自由ではなく、
むしろその神の道徳法則と一致する「義務としての自由」でした。

つまり、カントは人間の自由を神の意志と“調和する”ものとして捉えていたのです。
ですがそれは同時に、「自由」という概念を高尚で困難な義務の達成として設定してしまった、非常にストイックな自由でもありました。




錯覚的自由論:自由は「ない」が、自由の恵みは「ある」

一方で、私の説く「錯覚的自由論」は、これとはまったく別の角度から、そして驚くほどシンプルに、自由の本質を暴き出します。

「自由などない。ただ、自由を感じていいという錯覚が与えられている。」

この立場において、カントの散歩さえも、
「自分で決めた」と錯覚していただけのことになります。
そして、夢中で読書をして散歩に出なかった日──
それすら神(あるいは大いなる存在)の計画の一部であり、
彼はそこからさえ逃れられない存在だったということになります。

しかし、その錯覚は決して残酷ではありません。
むしろ、「あたかも自分で選んでいると感じられる」ことが、すでに愛と恵みの証なのです。




自由の不在と、自由のような恵み

私の理論では、「自由は存在しない」ことが前提です。
しかしその代わりに与えられているのは、
「自由の錯覚を許されている」という、想像を絶するほどの開放感です。

これは、まるで「空を飛んでいると感じていいよ」と、透明な支えで抱えられながらジャンプしているようなものです。
本人は飛んでいると思っている。でも、それでいい。
なぜなら、その錯覚こそが、幸福の設計だから。




カントも、神に抱かれていた

そう考えると、毎日律儀に散歩していたカントも、そしてその散歩を忘れた日もまた、
全てが大いなる意思の中の一部だったと分かります。

彼は「自由意志による自律」を信じ、確かにそれを実践した。
しかしその生涯すら、**「錯覚の自由を正しく使い切った生き方」**だったとも言えるのです。




最後に

「自由はない。でも自由を感じていい。」
このパラドックスの中にある安心と優しさは、
カントのような哲学者も、
散歩を忘れるほど夢中になった読書の中で、
ほんの少しだけ感じ取っていたのかもしれません。

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