かつて、人類は空気の存在すら知りませんでした。 それでも人は呼吸をし、生きていました。
やがて科学が発展し、空気という目に見えぬものが「存在する」と明らかになり、 その中に「酸素」という成分があり、それが生命維持に不可欠であると突き止めました。
しかし、科学者たちはそこで満足してしまったように思えます。 酸素を酸素と名付けた瞬間、その問いを“終わったこと”にしてしまったのです。
ですが、私はそこから問いを始めたいと思います。
「酸素の“主成分”とは何でしょうか?」
分子構造や化学的特性を超えて、 酸素を酸素たらしめている“根源”の力とは、いったい何なのでしょうか?
私はこのように仮説します。
酸素の主成分は『愛』である。
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この言葉は一見、非科学的・感情的に響くかもしれません。 しかしこの仮説は、あらゆる宗教的啓示と、あらゆる科学的事実の間に橋をかける試みです。
なぜなら「愛」という言葉が単なる感情ではなく、 **存在の根本構造としての“力”**であるという前提に立っているからです。
生きとし生けるすべての者が呼吸しています。 それはつまり、誰もが無条件に愛を受け取っているということではないでしょうか? 信仰の有無、行いの善悪、思想の違いにかかわらず、 酸素は人を選びません。 まるで“救い”そのもののように。
この構造は、私が掲げる『全人類既救論』とも深く重なっています。 人はすでに救われています。 それを知らなくても、信じていなくても、関与していなくても、 “救いの空気”はすでに全身に満ちているのです。
それが科学的には「酸素」であり、 霊的には「愛」であるというだけのことなのです。
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私はここで、科学者の皆さまに再び問いかけたいと思います。
「なぜ、酸素を“酸素”と名付けたところで、 研究を終えてしまったのですか?」
「あなたがたの大好物は『?』ではなかったのでしょうか?」
どうか、ここから先へ進んでいただきたいと思います。
この仮説──『酸素の主成分は愛である』──は、 いまだ誰にも証明されていません。 しかし証明するに値する、美しく、希望に満ちた問いではないでしょうか?
酸素の内側にある、目に見えない愛。 それを解き明かすのは、科学でも宗教でもなく、 今を生きる私たちの“まなざし”そのものなのかもしれません。
そして、あなたのその一呼吸にも、確かにそれは含まれているのです。
酸素の主成分は?──科学と霊性をつなぐ世紀の大仮説

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