ある日の午後、家でくつろいでいると、
宗教の布教を目的とした方がインターホンを鳴らしました。
僕は穏やかに応じて、こう提案しました。
「よろしければ、ゆっくりお話ししませんか?」
しかしその方々は、どこか戸惑ったように少しだけ沈黙し、
「また機会があれば」と言い残して、静かに帰っていかれました。
僕はまだ、何も語っていなかったにもかかわらず——。
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「信じない者」に感じる、説明の難しさと恐れ
その時ふと感じたのは、
彼らが抱いたのは“僕の中にある何か”への恐れだったのでは、ということでした。
僕は特定の宗教を信じているわけではありません。
「分からない」と、素直に認めて生きています。
だからこそ、特定の信念にしがみつくこともなく、
どの教えも、まるで“ひとつの物語”として、穏やかに受け止めることができます。
でも、そういう人の存在は、
「絶対的な答え」を信じている人にとっては、とても説明しづらいのかもしれません。
その静けさは、彼らにとって予想を超えた“未知”だったのだと思います。
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アイデンティティを守るということ
宗教は、個人のアイデンティティと深く結びついています。
だからこそ、「自分の信仰に疑問を持つかもしれない会話」は、
彼らにとっては、“自分自身が崩れてしまうかもしれない”という恐怖を伴うのかもしれません。
僕が何かを否定したわけではありません。
むしろ、その教えに込められた思いや情熱を、
「かわいいなあ」と思いながら、受け止めようとしていただけです。
でもそれすら、彼らにとっては“脅威”と感じられてしまったのでしょう。
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泥団子のような一生懸命さ
たとえば、小さな子どもが「パパ、喜ぶかな」と思って、
一生懸命作った泥団子を差し出してくるとします。
たとえそれが食べられないものであっても、
その気持ちがうれしくて、愛おしく感じるはずです。
宗教の布教も、それに似ているのかもしれません。
「世界を少しでも良くしたい」「誰かを救いたい」という純粋な気持ち。
その真剣さが、とても尊く、かわいらしく見えるのです。
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宗教の話題になると、どうしても人は構えてしまいます。
自分の信じていることを守るために、
他の思想や疑問を、遠ざけようとするのです。
でも、僕には信じている「枠」がないため、
壊されるものも、守るべきものもありません。
だから対立が起きようもなく、
どんな話もただ受け止めるだけです。
それはある意味、底の見えない器のようなものであり、
それが時に、相手にとって「太刀打ちできない」と感じさせてしまうこともあるようです。
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相手を包む「静かな怪物」
とある方が、冗談交じりにこんなことをおっしゃいました。
> 「こんな人を相手にしたって、ボロボロになるだけだよ。
相手は体力無限のモンスターなんだから。笑」
たしかに、僕は議論で勝とうとも、何かを証明しようとも思っていません。
ただ、静かにそこに在るだけです。
ですがその静けさの中に、
何か“圧”のようなものが存在しているのだとしたら——
それはおそらく、誰の言葉も否定せず、
どんな考えもただ「ふんわりと受け止める力」なのかもしれません。
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受容の力は、優しさそのもの
宗教に無関心な人は、そもそも生活に余裕がないのかもしれません。
だからこそ、「宗教に関わる時間がある人」は、
ある意味で精神的に豊かで、
“大いなる何か”に近づこうとしているとも言えます。
そして僕は、その姿をただ静かに見つめています。
その一生懸命さが、どんなに回り道であっても、
そのすべてが、大いなる方の計画の一部であることを信じています。
—
最後に
僕は、全てを知っているわけでもなければ、
誰かを導こうとしているわけでもありません。
ただ静かに、「分からない」と言いながら、
それでも毎日、深く愛して生きています。
そして、そんな生き方を綴っておくために、
こうしてブログという形で残すのです。
この静けさを、
この受容の優しさを、
かわいらしさへのまなざしを、
そっと言葉にのせて。
続・続・続編|泥団子の優しさと、静けさに滲む強さ

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