ある日、理不尽な仕打ちを受けた人がいました。
職場で、友人関係で、または恋愛で――
明らかに裏切られ、馬鹿にされ、怒りで体が震えるほどの出来事です。
彼は思いました。
「次に会ったら絶対に殴ってやる」
「こんなやつ、潰してやる」
怒りが燃え上がる。
ネットで復讐方法を調べ、頭の中で完璧なシナリオを組み立てる。
もはや止める者はいません。
やろうと思えば、できる。
“自由”が、そこにはあるように思えました。
けれど――数日後。
実際に相手と会っても、何もできませんでした。
彼はただ軽く会釈し、その場をやりすごしたのです。
なぜ?
あれだけ「絶対やる」と思っていたのに。
本人は言います。
「いや、できなかったんですよ。やろうと思えば、できたはずなんですけど…」
ここに、「実験的錯覚の自由」の本質があります。
“やろうと思えばできた”
という自由は、あたかも残されていたように感じる。
けれど実際には、その人の性格、育ち、経験、感情の動き、空気、場所……
あらゆるものが作用して、結局“できなかった”のです。
これは偶然ではなく、最初から“できないこと”として決まっていた可能性すらあるのです。
しかし、“できるように思えた”という錯覚が、人を救います。
「自分は本当はできた。あえてしなかった」と思うことで、自尊心が保たれる。
これが「自由の錯覚」という優しさなのです。
やらなかった彼は、数日後ふと気づきます。
「俺、あのとき何もできなかったけど……それで良かったのかもな」
これが「結果的最善への納得」です。
悔しさも消えず、怒りもゼロではない。
でも、何もせず通り過ぎた自分を、どこかで肯定している。
この感覚は、大いなる方の計らいそのものです。
やらなかった人は、やった人を見てもこう思うでしょう。
「うわ、やっちまったか。あいつ、すげーな。でも俺には無理だったわ」
以前なら、「なんで復讐しないんだ!」と他人を裁いていたかもしれません。
でも今は、裁きではなく理解へと変わっていく。
それが“寛容”の芽です。
自由は錯覚だった。
でも、その錯覚のおかげで、怒りも、逃げも、納得も、すべてが美しいストーリーとして成立する。
「実験的錯覚の自由」――
それは、大いなる方が仕組んだ優しい錯覚。
実行するもしないも、どちらも最善へと導かれるように設計された、“余白のような自由”なのです。
第7章 実験的錯覚の自由
「やってみればいい」という自由は残されている。しかし、その実行すら決まっていた可能性を示す思考の冒険。

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