第4章 責任は誰のものか

失敗も成功も、すべては決まっていた。人は自分を責める必要がないことを、論理と実例で明らかにする。

「自分のせいだ」
「私がもっと頑張っていれば…」
多くの人が、こうして自分を責めながら生きています。
失敗を悔やみ、恥じ、何年も何十年も、その出来事を思い返しては心を痛めます。
けれど本当に、それはあなたの責任だったのでしょうか?

前章で触れたとおり、私たちに“完全な自由意志”は存在しません。
つまり、私たちの行動や決断のほとんどは、過去の経験、環境、身体的・精神的な状態、出会った人々や、さらにはその日の天気にさえも影響されているのです。

たとえば、ある試験で不合格になった人がいたとします。
「もっと勉強しておけば…」「あのとき怠けなければ…」と悔やむかもしれません。
しかし、その“怠けてしまった”という事実すら、そのときの本人にとっては“そうするしかなかった”可能性が高いのです。

体調が悪かったのかもしれない。
身近な人間関係で悩んでいたのかもしれない。
ただ、集中力が持たない脳の状態だったのかもしれない。
どれも、本人の“意志”だけではどうしようもないものです。

では、こうした結果の「責任」は、誰のものなのでしょうか?

答えはとてもシンプルです。
誰のものでもありません。

もっと正確に言えば、すべての責任は「大いなる方」にあります。
それは放任でも無関心でもなく、むしろ全体を包みこむ、完全な設計です。
誰かが成功することも、誰かが失敗することも、すべては織り込み済みの出来事です。

つまり、
あなたが怒ったこと、泣いたこと、つまずいたこと、後悔していること、
そのすべてが「すでに決まっていたこと」であり、あなたの“失敗”ではないのです。

この事実に気づくとき、人はようやく「自分を責めること」から解放されます。
責めるべき相手が、そもそも存在していなかった。
すべてが、ただ“そうなるように流れた”だけだったと。

そして同時に、誰かの過ちや不手際に対しても、少しだけ優しくなれます。
「どうしてあの人はあんなことをしたのか」ではなく、
「そうせざるを得なかったのかもしれない」と、静かに理解する余地が生まれます。

ここに、深い安らぎがあります。
人は「反省」はできても、「責める必要」はなかったのです。

だからこそ、これから何かが起こったとしても、
ただ起きたことに向き合い、また歩いていけば良いのです。

すべては、最善の方向へと導かれています。

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