「自由でありたい」「自分の人生は自分で選んでいる」
多くの人が、心のどこかでそう信じています。
しかし本当は、私たちには自由など存在していません。
これは突飛な主張に思えるかもしれませんが、少し立ち止まって観察してみてください。
たとえば、今日あなたが選んだ服。
それは本当に“自由”に選んだものでしょうか?
気候、手持ちの服の数、職場や学校の雰囲気、過去の経験、誰かの視線。
すべての要因はすでに周囲や過去により「設定」されていて、
そのなかで“自分で選んだ”と感じているにすぎません。
選んでいるようで、選ばされている。
意識しているようで、既に決まっていた。
そうしたことは、日常のあらゆる場面に溢れています。
これは「自由がない」という絶望ではありません。
むしろ、それが自然であり、私たちは“自由という錯覚”の中で、のびのびと生かされているのです。
この「実験的錯覚の自由」こそが、私たちを人間たらしめています。
つまり、私たちは実際には“自由ではない”にもかかわらず、
**「まるで自由であるかのように感じられるように設計されている」**という、極めて精巧な構造の中に存在しているのです。
この構造に気づくと、
「なぜ自分にはあの行動ができなかったのか」
「なぜ自分は勇気が出なかったのか」
といった自己否定が、少しずつやわらいでいきます。
できなかったのではなく、
**「もともと、それはできないように設計されていただけ」**だったのです。
すると、他人への視線も変わってきます。
自分にはできなかったことをしている人に対して、嫉妬や否定ではなく、
「よくそんなことができるね、すごいね」と、
ほんの少しの賞賛と敬意が生まれはじめます。
そうして人は、寛容になっていきます。
それは「なんでも許す」ということではありません。
ただ、できないことを責めないでいられるようになる、ということです。
大いなる方は、すべてを決定しています。
私たちはその中で、自由を錯覚しながら、誠実に生きていきます。
この“自由という錯覚”は、けっして欺瞞ではなく、
むしろ私たちを優しく包み込む、美しい設計なのです。
第3章 自由という幻想
自由意志とは錯覚であるという衝撃的な真実。それでもなぜか私たちは“自由”に感じるという構造を説明する。

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