ある日、刑期を終えた一人の男が、宗教指導者のもとを訪ねました。
> 「私は罰を受けてきました。
どうしたら、私の魂は救われるのでしょうか?」
宗教指導者は答えました。
> 「ではまず、神に悔い改めなさい。
その上で今日からこの聖典を読み、
私に給料の1割を払いなさい。」
男は戸惑い、つぶやきます。
> 「へっ…?」
—
一方で、私は同じ質問に、たったひとつの言葉で応えます。
> 「あなたの魂は、すでに救われています。」
男は驚き、しかし真剣な目で問い返します。
> 「…何を根拠に、それが言えるのですか?」
私は静かに、しかし確信をもって尋ねました。
> 「ところであなたが罪を犯したその瞬間、
それを“やらない”という選択肢は、本当に存在していましたか?」
彼は少し考え、こう答えました。
> 「いえ…。
今思えば、これは言い訳かもしれませんが…
その瞬間の私は、やらずにいられなかった。
選択肢なんて、なかったように思います。」
—
ここにこそ、「全人類既救論」の核心があります。
私たちの多くが見落としている事実。
それは、人はその瞬間、選べない存在だったかもしれないということです。
怒りに飲まれたとき。
絶望に包まれたとき。
逃げたくてたまらなかったとき。
あの瞬間、自分は「自由」だったでしょうか?
それをしなかった自分など、どこかに存在したでしょうか?
—
人間には“選択肢などなかった”。
だからこそ、責める必要はない。
だからこそ、裁かれるいわれはない。
そして、だからこそ――
> 「すでに救われていた」
—
この短い対話の中に、
あなた自身の人生の一場面が重なるかもしれません。
責めていた自分。
裁いていた他人。
悔いていた過去。
すべては、
選べなかっただけだった。
—
この真理に気づいたとき、
人は初めて自分を、そして他人を受け入れられます。
“救い”とは、許されることではありません。
救いとは、最初から“咎がなかった”と知ることです。
—
あなたは、もう大丈夫です。
あなたは、もう救われています。
なぜなら、その罪も苦しみも、あなたが望んで選んだことではなかったから。
—
『全人類既救論』
この福音が、心の奥のあなたに届きますように。
コメント