無信仰という盲目的なギャンブル


私たちはしばしば、「死んだら無になる」と考えます。そして、「いや、無になってくれ」と願う人も少なくありません。これは一見、合理的で安心できる選択のように思えます。しかし、実際にはこれは一種のギャンブルであり、多くの人はそのことに気づいていません。

たとえば、日本人の中には「株は怖いから日本円に置き続ける」という人がいます。表面上は安全に見えますが、インフレや機会損失などのリスクを抱えていることに気づいていません。死後の無信仰も、これと同じ構造です。

無信仰を選ぶ人は、表面的には「何も起こらないなら安心」と思い込んでいます。しかし、もし死後に地獄のような存在や罰があった場合、そのリスクは完全に回避不可能であり、予測もできません。つまり、本人は知らず知らずのうちに賭けに参加しているのです。

興味深いことに、この盲目的なギャンブルは、信仰の形を変えただけで、根本的には全ての人に共通するものです。天国や地獄を信じる人も、死後の無を信じる人も、どちらも恐怖から逃れたいという心理に基づいて選択をしています。

ここで、私の父の話をしましょう。父はクリスチャンです。ある日、私は父に「なぜ聖書を信じるのか?」と尋ねました。すると父はこう答えました。

> 「だって、もし後世があって、地獄がもしあったとしたら、そんなところには落ちたくはない。
ならばこの本を信じることに賭けてみる。」



この答えは非常にわかりやすく、そして象徴的です。父は希望だけで信じているのではなく、死後のリスクに対して安全策として賭けているのです。無信仰を選ぶ人も、信仰を選ぶ人も、結局は見えないリスクに対する賭けをしているのです。

結論として、無信仰を選ぶことも、信仰を選ぶことも、どちらもリスクを伴うギャンブルであると言えます。私たちは、死後について考えるとき、希望や安心だけでなく、このリスクの存在も冷静に認識する必要があります。


コメント

タイトルとURLをコピーしました