最終章 すべては最善である

どんな出来事も、どんな過去も、すべては最善だった。感じるに足る論理と感覚で、その真理を結ぶ。

ここまで読み進めてくださった方なら、
もはや「すべては最善である」という言葉に、
安易な慰めや空虚な理想を感じることはないでしょう。

これはただの希望的観測ではありません。
厳しい現実の中で、それでも人がなお生きる理由。
混沌の中に秘められた秩序、
その存在を感覚と論理の両面から腑に落とすこと――
それこそが、この章の主題です。




思い出してください。
人生の中で、あのとき「最悪だ」と思った出来事が、
後になって何かを変える転機になった経験を。

あるいは、何かを失った直後に出会った優しさを。
傷ついた後だからこそ深まった理解やつながりを。

私たちは、自分で理解しきれないタイミングで、
自分では到底選ばないような方法で、
“最善”へと導かれてきたのかもしれません。




この世界を形づくる“全体性”を信じるということ。
それは、目の前の出来事がどれほど理不尽に見えても、
「いまの自分の視点では測りきれない何か」が必ずあると、
静かに、しかし力強く信じる姿勢です。

この“信じる”とは、盲目的に信じ込むことではありません。
むしろ、いまここにある全てが、どこにも矛盾なく繋がっていると
感じられるようになる“体験”なのです。




そして、この感覚に辿り着いたとき、
私たちは過去を否定せずに受け入れることができます。

失敗も、喪失も、怒りも悲しみも――
それらすべてを「間違い」ではなく、
“必要だった”と捉え直せるようになります。

それは誰かに許しを乞う行為ではなく、
自分自身に対する、静かな赦しと肯定です。

この世界のあらゆる現象は、
あるべきように、あるべきときに、起きている。
その理解が深まれば深まるほど、
人は力まずに、今という瞬間に安らげるようになります。




人生に意味はない――
しかし、大いなる方の意図は常に“愛”で満ちている。

私たちはその中で、与えられた流れを泳ぎ、
流れ着いた岸辺でまた安らぎ、
次の流れに身をゆだねるだけでいいのです。




すべては最善である。
この言葉に、もう説明はいらないかもしれません。

むしろあなた自身が、すでに知っていたはずです。
あの無敵だった頃に。
そして、これからも――ずっと。

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