愛を信じないあなたへ──それでも、愛は確かに「そこ」にあります

◆ なぜ人は「与えたとき」のほうが幸せになるのでしょうか?

多くの心理学者や研究者は、「人は与えると幸福になる」と語っています。
たしかにそのとおりだと思います。
でも、なぜ「与える」ことで幸福になれるのか?
その理由を考えていくと、専門家の説明と、僕自身が導いた答えには、大きな違いがあると気づきました。




◆ 専門家たちの説明

心理学や神経科学の分野では、以下のような理由が挙げられています。

1. 自己効力感が高まるから
 「自分は役に立てた」という実感が、自尊心を満たす。


2. 社会的つながりが強化されるから
 信頼関係や絆が生まれ、人間関係が安定する。


3. 脳内ホルモンが分泌されるから
 オキシトシンやドーパミンといった幸福物質が放出される。


4. 進化的に有利だから
 「他者を助ける行動」が結果的に自分の生存や遺伝子の保存に有利に働く。



どれも理にかなっていて、実証可能な理屈です。
ただ、それらはすべて“外から見た説明”に過ぎないと僕は思っています。




◆ 僕の解明──内側から見た「幸福の本質」

他人からの善行には、その本心が見えません。
「何か見返りを求めているのかもしれない」と疑ってしまうこともあります。
だから、与えられる善意では、愛の“証明”にはならない。

けれど、自分の中から湧き出た善行には、違う感覚があります。

■ もし、その行動に下心がなかったと自分で感じられたなら、
■ もし、それが自然と出たものであったなら、

その瞬間、僕はこう思います。
「ああ、いま僕の中に確かに“愛”が存在していた」と。

自分自身が、自分の中の“何か”に感動するのです。

そして、その感動こそが、幸福そのものなのだと、僕は確信しています。




◆ 「愛などない」と言い張る青年の話

僕はこんな青年に出会ったことがあります。

彼はこう言いました。
「僕は愛なんて信じていない。感じたこともない。」

周囲の人が言います。
「でも君は、親に大学まで行かせてもらったじゃないか。それは愛ではないのか?」

すると彼はこう返しました。
「いいえ、それはただの世間体です。親が“普通の親”であると思われたかっただけの行動です。」

僕は、その言葉もまた本当だと思いました。
たしかに、愛は他人の行動だけでは証明できません。
その動機は、本人にしかわからないからです。

でも──もし、そんな彼がある日、
道ばたで誰かが落としたハンカチを、わざわざ拾って手渡したとしたら?

そのとき、彼自身はもう言えないのです。
「僕の中に、愛なんてなかった」などとは。

なぜなら、それは彼の“中”から出た行動だからです。
他人からの評価ではなく、自分の心が一番よく知っている。

そしてその一瞬、彼もまた
「自分の中に、たしかに愛があった」と、
 自分自身に対して証明することになるのです。




◆ 学者たちと僕の考え方の違い


多くの学者は、この「内側からの確信」に目を向けません。
科学は測れるものを追いかけるからです。

でも僕が見ているのは、
**「なぜ人は“何の得もないのに”善行をするのか」**という問いの中にある、
もっと根本的な力──つまり、愛そのものです。




◆ 愛は、自分を通して現れる

僕は、電車の中で席を譲る人を見るのが好きです。
そのしぐさや言葉のやさしさに、愛を感じます。

それは道徳やマナーではなく、
“ただそこに現れた愛”──静かで、ささやかで、けれど確かなものです。

その場に居合わせた誰もが、それに心を動かされる。
なぜなら、その行為に偽りがないからです。




◆ 最後に

愛は証明できません。
他人の行動の真意も、見抜くことはできません。
でも、自分の中にあった愛は、自分だけは気づくことができます。

そしてそのとき僕たちは、自分の行動に感動し、心から幸福を感じるのです。

それこそが、
「愛はある」と自らの体験で知る瞬間です。

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