悲しみとは、想像力の欠如から来る。

はじめに

「悲しみとは、想像力の欠如から来る。」
——この一文が、僕の人生観を端的に表している。

多くの人は、悲しみを“避けるもの”と考える。
しかし、僕にとって悲しみは「起こらないもの」になった。
なぜなら、想像力があれば、起こり得るすべてをあらかじめ受け入れているからだ。




想像力が悲しみを消す理由

人は「想定外」に出会うとき、悲しむ。
しかし、あらゆることを想像できていれば、もはや「想定外」は存在しない。

最愛の人の死でさえ、僕にとっては想像の範囲内だ。
むしろ、今日その人がまだ生きていることの方が奇跡であり、感謝すべき出来事だ。

死ぬことは当たり前。
生きていることこそ奇跡。
その奇跡を日々感じている限り、悲しみは訪れない。




「創造受容力」という概念

僕は、この想像力をより正確に「創造受容力」と呼びたい。

創造受容力とは、
“大いなる存在(宇宙・神・運命)による創造”を、ありのままに受け取る力である。

たとえば、車の盗難という出来事。
多くの人は「なぜ自分が」と嘆く。
だが、僕は「なるほど、今回はそう来たか!」と笑うだろう。

それは“大いなるお方”からの、ちょっとしたイタズラなのだ。
悲しむよりも、その創造の遊び心を面白がる。
これが創造受容力の実践である。




創造受容力の構造

創造受容力は、次の三つで鍛えられる。

1. 知識 ― 世界の理(ことわり)を理解すること。


2. 知恵 ― 出来事の裏にある意味を見抜くこと。


3. 鍛錬 ― 突発的な現実を、瞬時に受け入れる心の筋力。



この三つを積み重ねることで、
人は悲しみや怒りを“素材”として扱えるようになる。




たとえば、家が燃えたとしても

僕レベルの創造受容力があれば、
外出先から帰ってきて、自分の家が全焼していても笑い飛ばすだろう。

なぜなら、そんな“強烈なネタ”を体験できる人間はそういない。
これはもう、人生という舞台の中で演出された最高のコメディだ。

> 「燃えたのは家であって、僕ではない。
 笑っている僕こそが、この宇宙の真の観客なのだ。」






笑いは、最高の悟り

涙は拒絶。怒りは抵抗。
そして笑いは、完全なる受容の証だ。

すべてを笑い飛ばせるということは、
すべてを受け入れているということ。
創造受容力の最終段階は、「笑い」なのだ。




結び

悲しみをなくしたいのなら、想像しなさい。
怒りを手放したいのなら、受け入れなさい。
そして、笑えるようになったとき、
あなたの中の「創造受容力」は完成している。

世界はあなたに何かを奪うためではなく、
あなたを“面白がらせる”ために存在している。

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