後編:治安が良すぎる国で、人は「危険を感じる力」を失っている

前編では、現代の日本人がいかに“歴史上もっとも安全な存在”であるかを考察しました。
しかし、その圧倒的な安全の中で――
私たちは、ある大切な力を失いつつあります。

それは、「危険を察知する感覚」です。




無防備な現代人たち

現代の日本では、夜道を一人で歩く女性が珍しくありません。
電車の中では、貴重品を持ったまま眠り込む人がいます。
週末には、路上で酔って寝てしまう人まで見かけます。

これらの光景は、一見「平和な国の証」にも見えますが、
同時に、「平和ボケ」の象徴でもあります。

他の多くの国で同じことをすれば、
財布どころか、命までも危険にさらされるでしょう。
にもかかわらず、私たちはその危険を“想像する力”すら失っているのです。




「治安の良さ」は、人を鈍感にする

治安の良さとは、本来、感謝と警戒の両方を伴うものです。
それが極まると、人は“危険が存在しない世界”を前提に行動してしまう。

防犯意識は薄れ、周囲への注意もなくなり、
結果として、わずかな異常にも気づけなくなります。

たとえば、夜の街でうずくまる酔っ払い。
多くの人が通り過ぎていきます。
「関わりたくない」「自分には関係ない」と。

しかし私は、時間があるときには必ずその人の側に立ち、
意識を確認し、必要であれば救急車を呼びます。

なぜなら、その一瞬の関心こそが、
“安全な社会”の根幹だからです。




本当の「治安の良さ」とは何か

真の意味での治安の良さとは、
「危険が少ない」だけではなく、
「誰もが他人の安全を気にかける社会」であることです。

日本がこれほど安全なのは、
制度や警察の力だけではなく、
見えないところで“人が人を守る意識”がまだ残っているからです。

それを失えば、
どれほど警察が多くても、どれほどカメラが設置されても、
社会は“冷たい安全”に変わってしまいます。




鈍感になった社会に、もう一度「温度」を

私は、治安の良さそのものを否定するつもりはありません。
むしろ誇りに思っています。

ただ、その中で人々が「警戒心と優しさ」を失っていくことに、
強い危機感を覚えています。

安全な国に生きる私たちは、
もう一度「危険を感じる力」と「人を思う温度」を取り戻さなければなりません。




結論:

現代日本人は、
「最も安全な時代に生きる最も無防備な人類」である。

だからこそ今、
“守られている”という事実に甘えるのではなく、
“守り合う”という意識を取り戻す必要があるのです。

コメント

タイトルとURLをコピーしました