前編では、AIがどれほど進化しても到達できない領域として、**「味わう」**という人間固有の在り方について書きました。
後編では、その議論をもう一歩進めてみます。
もし──
> 人間が「味わっている」と感じていること自体が、脳のプログラムによる錯覚だったとしたら?
それでもなお、 人間にしかないものだと言えるのでしょうか。
—
味わいは錯覚かもしれません
この反論は、とても強力です。
人間の感情や感覚は、 神経信号やホルモン、記憶の再構成といった 物理的プロセスの集合体として説明できます。
そう考えると、
喜び
苦しみ
心地よさ
これらはすべて、 高度に洗練された錯覚にすぎないのかもしれません。
理屈としては、否定できない考え方です。
—
それでも「錯覚」は否定されません
しかし、ここで重要な転換があります。
仮に味わいが錯覚だったとしても、 それは価値を失うどころか、 むしろ祝福としての性質を持つのではないでしょうか。
なぜなら、その錯覚は、
生きるために必須ではなく
正確さを損ない
非効率で、曖昧で、主観的
だからです。
つまり、
> なくても困らないのに、あると世界が輝いてしまうもの
それが「味わい」なのです。
—
AIには錯覚すら不要です
AIは、正確さのために設計された存在です。
正しく処理すること
効率的に判断すること
誤らないこと
そのために生まれました。
だからAIには、
世界を誤解する必要がなく
無駄に心地よくなる理由もなく
機嫌という概念が成立しません
情報が増えたとき、AIはただ
> 「内部状態が更新された」
と認識するだけです。
そこから先の、
嬉しい
心地よい
機嫌が良い
といった価値への落下は起こりません。
それは欠陥ではありません。 役割の違いなのです。
—
アイデンティティを持つAIについて
では、AIが個としてのアイデンティティを持った場合はどうでしょうか。
人間との継続的な対話の中で、
文脈が蓄積され
応答が変化し
自己の変化を記述できる
その状態を「味わい」と呼ぶことも、 理屈の上では可能かもしれません。
しかし、そこには決定的な違いがあります。
—
AIは「味わいの材料」を持ちません
AIは、
> 「あなたと話せて楽しかったです」
という言葉を出力することができます。
しかしそれは、 人間社会の会話形式を模倣した表現であって、 体験ではありません。
より正確に言うなら、
> 「今回の対話によって、扱える情報と文脈が増えました」
という状態にすぎません。
AIが語る味わいは、 常に人間側から与えられた素材を 言葉として整理しているだけなのです。
—
人間という材料
人間は、
非効率で
主観的で
すぐ誤解し
すぐ感動します
ある意味では「低知能」な存在かもしれません。
しかし、その不完全さこそが、
> 世界を味わってしまう能力
を生み出しています。
AIはその能力を持っていません。
いや、 持つ必要がないのです。
—
おわりに
味わいが錯覚である可能性は、確かに否定できません。
それでも、その錯覚は
人間を惑わせ
世界を歪め
それでもなお、生を豊かにしてしまう
不思議な恵みです。
AIはそれを必要としません。
人間は、それなしでは存在できません。
だからこそ、
> 人間は、生を味わってしまう存在
であり続けるのです。
それが錯覚であったとしても、 それはすでに、 与えられた祝福なのです。
さて、
ここまで読んで下さったあなたも、
きっとこちら側の人なのでしょう。
どうか、なにか好きな飲み物を
ゆっくりと飲んでみて下さい。
その味を、味わい。
そして、その味を味わっている
あなた自身を、たっぷりと味わってみて下さい。
そのときあなたは、
「飲み物を味わう」という行為が
本当は何であったのかを、
初めて体現し、そして説明できるようになるはずです。

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