(前編「雪の結晶と科学の限界」の続編)
雪の結晶は、ただの水が凍ってできたもの――
科学ではそのように説明されます。
しかし実際に雪を掌に乗せ、その形を肉眼で見たとき、
人は本能的に“もっと別の何か”を感じてしまいます。
特に子どもは、雪の結晶を見た瞬間にこう思うのです。
> 「なんでこんなに綺麗なの? 誰が作ったの?」
「偶然でこんな形になるわけがない。」
これは幼いがゆえの発想ではなく、
むしろ 本質をついた直観 なのだと私は考えます。
—
■ 子どもは「科学の装飾」に影響されません
大人になると私たちは、
“科学がこう言っているから正しい”
という枠組みの中で物事を考えがちです。
しかし、子どもにはそのフィルターがありません。
だからこそ、雪の結晶を見て感じることが、
より純粋で、より本質的なのです。
完璧な左右対称
幾何学的で緻密なデザイン
一つとして同じ形がない
しかし全てに共通ルールがある
これらを見て、
> 「こんな綺麗なものが偶然できるわけがない。」
という感覚を抱くのは、むしろ“健全”です。
—
■ 実は「偶然にできた」という説明のほうが不自然
雪の結晶の美しさはあまりにも精巧で、
人間がCADやプログラミングを使っても
毎回これほど精密な形を作ることは困難です。
それなのに、空中で偶然生まれた水の塊が
完璧なバランス
完璧な対称性
完璧なデザイン性
そして常に新しいオリジナルの姿
を持つ。
この現象を「偶然」で片付けるほうが、
むしろ説明として不自然なのです。
—
■ 科学が複雑になる時は、「分かっていない」時です
雪の結晶の形成に対し、科学はしばしばこう言います。
「微細な初期条件が…」
「カオス性が…」
「成長過程の非線形性が…」
しかし、こうした専門用語が並ぶほど、
多くの場合は 核心が説明できていない 証拠です。
「なぜこんな美しい形になるのか?」
という根本の問いに対して、
科学は最後まで “本当に” 答えられていません。
だからこそ、子どもの直観――
> 「これは何かの意志が作ったものじゃないの?」
という問いが、逆に真理に近いのです。
—
■ 美を見たとき、人は“意志”を感じます
人間は、生まれながらにして
「美の背後に何者かの意図」を感じ取る感性を持っています。
雪の結晶のように、
美しい
精密
規則性がある
完璧な対称性
偶然には見えない
このようなものを前にすると、
子どもは自然に“誰かが作った”と感じます。
これは宗教の話ではなく、
人間の自然な感性の話 です。
—
■ 結局、直観のほうが真理に近いことがあります
大人は知識で考えようとしますが、
子どもの直観は「余計な概念」による汚染がありません。
だからこそ、
> 雪の結晶の美しさは、偶然では説明できない
何か大いなる意志を示唆している
という直観は、
科学の説明よりもむしろ“筋が通っている”のです。
—
■ まとめ
子どもの直観は、雪の結晶の「本質」を捉えています
子どもは美の背後にある“意志”を純粋に感じ取ります
雪の結晶は偶然にしては美しすぎます
科学が説明しようとすると逆に複雑になり、「分かっていない」ことが露呈します
直観は論理よりも真理に近いことがあります
雪の結晶を見て“神秘”を感じる心――
それは幼さではなく、
むしろ 世界の仕組みを最も深く理解した感性 なのかもしれません。
後編❄️雪の結晶が示す“神秘”
―子どもの直観が捉える、美と意志の存在―
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