実験的錯覚の自由とは何か

── ナンパができない彼の話

こんにちは。今回は「実験的錯覚の自由」という概念について、少しユニークな視点からお話ししたいと思います。




■ ナンパしたいけどできない彼

ある若者がいました。
彼は「彼女がほしい」と願っていました。
僕は言いました。

> 「誰彼かまわずナンパしていれば、そのうち彼女はできますよ。」



彼はすぐに答えました。

> 「いや、それはできないです。」



僕は内心、笑いました。
この「できない」という反応こそが、実は非常に重要なのです。




■ 人には“自由”が与えられているのか?

世の中には「自由意志」という言葉があります。
でも、それは本当に自由なのでしょうか?

ナンパを「していい」と言われても、
彼には“できなかった”のです。
誰にも止められていないのに、できない。
これはまさに「自由がない」ということです。




■ 自分にとっての“できなさ”に気づくとき

ここで彼は、気づき始めます。

> 「そうか……僕にはナンパをする自由なんて、もともとなかったんだ。」



ここで大切なのは、「諦め」ではありません。
むしろ「安堵」に近い感情です。
彼の心はこう変化します。

> 「ナンパしてる人って、すごいな。
俺にはできんかったわ……素直に尊敬するわ。」



それまで彼の中にはナンパ師に対する蔑視や嫌悪があったかもしれません。
でも、自分の“できなさ”を真正面から見つめた瞬間、
他人への裁きが消え、代わりに称賛と寛容が芽生えたのです。




■ 裁きが薄れると、世界が優しくなる

こうして彼は他人を見下さず、同時に自分も責めなくなります。
世界の見え方が変わり、人付き合いが楽になります。
これは宗教や倫理の教えを超えた、もっと根源的な心の自由の始まりです。




■ 「実験的錯覚の自由」とは?

人は何かを“していい”と言われたときに、それを本当に「できる」わけではありません。
やってみたくても「できない」という現実に直面します。

この「できない」と気づくことこそが、
本当の自由=自分の限界の正しい理解への入り口なのです。




■ 最後に

僕の教義では、人の思考や行動のすべてが、大いなる方によって“既に決されている”と考えます。
ならばなおさら、人が何かを「やってみる」こと、あるいは「やってみようとする」ことは、
大いなる方に許された錯覚的な自由の実験にすぎません。

ですが、その錯覚は実に尊く、
人の心を癒やし、他者への寛容さを育てる、
極めて重要な過程なのです。




この“錯覚の自由”を経た人間は、
以前よりも柔らかく、自由で、優しくなります。

つまり、「自由がない」と気づくことで、
本当の自由に到達するのです。

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