人はなぜ生まれてきたのか
――「褒める」という行為がつなぐ、愛の循環について



人は誰しも、一度は考えたことがあるのではないでしょうか。


「そもそも、なぜ自分は生まれてきたのだろうか?」


仕事の意味、幸せの意味、人生の目的。
それらを突き詰めていくと、最終的にこの問いに行き着きます。


本記事では、この最終命題に対して、


「人間は他人を褒めるために生まれてきた」


という一つの結論を提示します。



私は以前から、
「人間は、そもそも愛されるために生まれてきた」
と考えてきました。
ここで言う「愛される」とは、
成果や条件によって得られるものではありません。
存在していることそのものが肯定される、
そうした愛です。


もし世界に「大いなる造り主」が存在するとするなら、
その造り主は、人間を支配するためでも、試すためでもなく、
愛するために創造したと考える方が自然です。


では、その愛はどのようにして現実の中で具現化されるのでしょうか。
その答えが、今回の命題です。


褒めるとは、愛を現実化する行為である
「褒める」という行為は、
単なる社交辞令やテクニックではありません。
それは、
相手の存在や営みを肯定すること
世界の中にある「良さ」を言語化、あるいは行為で示すこと
です。


重要なのは、
上手に褒める必要はないという点です。
語彙が少なくても構いません。
「よく分からないけど、なんだか心地良かった」
この一言だけでも、
受け取った側は確かに褒められたと感じ、
正の感情を抱きます。
そして、この正の感情こそが、
大いなる造り主から人間への愛の贈り物なのです。


路上ライブという、最も純粋な実例


私は路上ライブをするのが好きです。
多くの人は足を止めず、
何事もなかったかのように通り過ぎていきます。
時折、立ち止まって歌を聴いてくれる人がいます。
言葉で褒めてくれる人もいれば、
お金を置いていってくれる人もいます。
しかし、褒めるのが苦手な人は、
ただ黙って聴き、やがて立ち去ります。
それでも、私には分かります。
彼らが心の中で
「心地良かった」
と感じていたことが。
なぜなら、もし不快であれば、
人は足を止めて歌を聴いたりはしないからです。


さらに言えば、
私の歌を鼻歌で口ずさみながら通り過ぎていく人もいます。
鼻歌は、意識的な評価ではありません。
無意識に音楽が身体に入り、肯定された証です。
これもまた、確かな「褒め」です。


演者と視聴者に優劣は存在しない
今回の考察において、
最も重要なポイントがあります。
それは、
演者と視聴者の間に、優劣が存在しない
という点です。


一般的には、
演者は与える側
視聴者は受け取る側
と考えられがちです。
しかし、この構造では上下関係が生まれてしまいます。


今回のモデルでは違います。
演者は音を差し出す
視聴者は心地よさとして受け取り、返す
役割が違うだけで、
同じ高さに立っています。
どちらが欠けても成立しません。
価値は、どちらかの「偉さ」に宿るのではなく、
両者の間に生まれる循環そのものに宿ります。


三重に満たされる幸福の構造


この循環が成立したとき、
幸福は三重に現れます。
演者が褒められたことによる満足
視聴者が心地よさを受け取った満足
造り主が、愛を実現できたという満足
誰かが犠牲になることはありません。
誰かが上に立つ必要もありません。
ただ、愛が自然に回っているだけです。


結びに


人間は、
何かを成し遂げるためだけに生まれてきたのではありません。
誰かを打ち負かすためでも、
評価され続けるためでもありません。


人は、
世界の中にある良さを感じ取り、
それを肯定するために生まれてきた
そして、その肯定が
「褒める」という行為として現れたとき、
正の感情が返ってきます。
それは報酬ではなく、
愛が正しく循環したという合図です。


もし今日、誰かの存在や行為に対して
「心地良い」と感じたなら、
それだけで、もう十分です。


それはすでに、
世界を一度、優しく回したということなのです。

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