私たちは日常的に「宗教」や「科学」という言葉を使います。しかし、これらの言葉の本質を深く考えたことがあるでしょうか。今回は、私の独自の視点から、宗教や科学、そして世界そのものについて論じてみたいと思います。
—
宗教とは何か
一般的に「宗教」という言葉は、辞書的には次のように定義されます。
> 「超自然的存在や力への信仰に基づき、人生・世界・死後の救済や意味を解釈する体系」
ここで重要なのは三つの要素です。
1. 超自然的存在(神、霊、魂、奇跡など)
2. 信仰・崇拝(祈りや儀式、信念体系)
3. 人生や死後の意味を扱う体系(倫理や救済の概念)
英語の religion も同様で、科学的に説明できない力への信仰や、それによる社会的・精神的秩序の提供が核心とされています。
つまり、従来の宗教の定義においては、人間が信じる対象としての超自然的存在の有無が不可欠です。
—
自然現象と超自然の違い
ここでひとつ疑問が湧きます。
「太陽の運行や地震、台風、雨などの自然現象も、超自然的存在の一部に含まれるのか?」
結論から言えば、通常の定義では 含まれません。
太陽や地震は科学的に説明可能であり、超自然とは呼ばれません。
ただし、「自然現象を司る神」として捉える場合、その神は超自然的存在となりますが、現象そのものは自然現象です。
—
全人類既救論の視点
私の提唱する『全人類既救論』では、この見方をさらに拡張します。
太陽系の運行も、地球の自然現象も、生物の行動も
すべて大いなる何かの意志・計画の下で生じている
つまり、人間の目には「自然に見える現象」も、実際には意図的に設計された計画の表れです。この視点では、自然現象すら宗教的対象となり得るのです。
—
宗教の超越
従来の宗教では信仰者の意識が必要でした。しかし私の枠組みでは、全ての現象は既に計画済みであり、人間が信じるかどうかは無関係です。
信仰の対象は存在せず
信じる必要もない
世界そのものが既に「計画された秩序」
このため、『全人類既救論』は宗教を超越した概念と言えます。
—
科学とは「遊び」
では、科学や科学者の位置づけはどうなるのでしょうか。
多くの人は科学を「事実の探究」として信じています。しかし、私の枠組みから見ると、これは全て 大いなる計画の一部を体験しているに過ぎません。
科学者が自然現象を解明するとき、無意識のうちに大いなる存在の秩序や偉大さを体感しています。
これはまさに「超自然的存在への興味」と同じ構造です。
言い換えれば、科学は知的な「遊び」です。
世界や宇宙、生き物は、大いなる何かから与えられた玩具
科学者はその遊び方を学び、発見の快感を得る
発見を示すと称賛され、さらなる探求心が生まれる
例えるなら、剣玉という玩具を知らない子供に渡したとき、最初は不器用に遊ぶ。しかし賢い子が本来の遊び方を発見し、周囲に示すと称賛され、快感を得る――科学もこれと同じ構造です。
—
結論
整理するとこうなります。
1. 従来の宗教は信仰者の意識に依存する体系
2. 私の枠組みでは、世界そのものが計画済みであり、信仰の必要はない
3. 科学もまた、世界という玩具の遊び方を発見する行為であり、無意識のうちに超自然的存在の偉大さを体感する
つまり、世界、宗教、科学はすべて 大いなる何かの意図の表れであり、人間はその一部を遊び、理解し、体験している に過ぎません。
結論として、科学も宗教も、私の枠組みでは「大いなる存在との関わり方」の表現に過ぎず、世界の本質を理解する鍵は 全てが既に計画されているという認識 にあります。
世界、宇宙、科学、 ― 大いなる何かから与えられた「玩具」としての宇宙

コメント