サウナ害悪論という視点
近年、サウナは「健康に良い」「ととのう」といった言葉とともに、広く親しまれる存在になりました。多くの方がサウナを楽しみ、心身のリフレッシュを感じていることも事実でしょう。
本記事では、その楽しみ方や価値を否定することを目的とするものではありません。ただ一つ、別の角度から――**「サウナは本当に人間にとって必要なものなのか」**という問いを、静かに整理してみたいと思います。
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自然から見たサウナという存在
まず着目したいのは、「自然」という視点です。
人間は生物であり、自然界の法則の中で生きています。自然界を見渡してみると、
高温多湿の密閉空間に長時間入る
その直後に極端な冷水へ身体を沈める
といった環境は、ほとんど存在しません。
サウナは自然を模倣しているというよりも、人為的に作られた極端な環境だと言えます。この時点で、「必要不可欠なもの」というよりは、「後から付け加えられた装置」と捉えることができます。
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心拍数という観点
次に、生物学的な視点です。
多くの動物において、
心拍数が速い生物ほど寿命が短い
心拍数が遅い生物ほど寿命が長い
という傾向が観察されています。これは完全に証明された法則ではありませんが、強い相関があることは知られています。
サウナでは、体温上昇に伴い心拍数が大きく上昇します。これは一時的な反応ではありますが、心拍数が増加した事実そのものは消えません。
この視点に立つと、
サウナは心拍数を積極的に消費する行為
つまり、寿命リソースを使う行為
と解釈することもできます。
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「ととのう」ことへの疑問
サウナの魅力として、よく語られるのが「ととのう」という感覚です。
確かに、サウナ後に心身が落ち着く感覚を得る方は多いでしょう。しかし、ここで一つの問いが浮かびます。
なぜ、わざわざ「ととのえる」必要があるのでしょうか。
もし健康的な状態が本来の自然な姿であるなら、
日常生活そのものが安定している
特別な装置を使わなくても心身が乱れない
という状態が理想ではないでしょうか。
「ととのう部屋」が必要になるということは、裏を返せば、日常がととのいを崩す前提で設計されているとも考えられます。
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回復前提の生活設計への違和感
サウナは、乱れた状態を一度壊し、再び戻すための装置とも言えます。
しかし、
壊れることを前提にし
回復手段を常備する
という生き方は、本当に自然でしょうか。
回復を繰り返すよりも、
そもそも乱れない生活
心拍数を過度に上げない暮らし
無理を前提としない設計
を目指す方が、より根本的ではないか、という考え方も成り立ちます。
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サウナファンの方へ
ここまでの内容は、サウナを楽しんでいる方を否定するものではありません。
サウナが合う方がいることも事実ですし、そこに救われている人がいることも理解できます。
ただ、本記事で提示したいのは、
サウナは「健康を作るもの」なのか
それとも「不自然な生活を補修するもの」なのか
という、前提そのものへの問いです。
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まとめ
サウナ害悪論とは、サウナを嫌う思想ではありません。
自然から見てどうか
生物として無理がないか
本当に必要な工程なのか
これらを静かに見直した結果、
> ととのえる装置が必要な時点で、 生活設計そのものを見直す余地があるのではないか
という結論に至る、ひとつの視点です。
サウナを楽しむ自由と同時に、 サウナを必要としない生き方があってもよい。
そのような問題提起として、受け取っていただければ幸いです。
サウナ害悪論
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