人はよく、「運が良い」「運が悪い」と言います。
しかし、私は長い人生の旅を通して、ある地点に気づきました。
それは——“運”という概念そのものが存在しないということです。
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■ 「運」は人間が作り出した幻想です
たとえば、受験に落ちた人が「運が悪かった」と言う一方で、
別の人は「これも運命だから悪くない」と言います。
同じ出来事であっても、真逆の意味づけが生まれる。
つまり、“運”とは出来事そのものではなく、
人間の都合による解釈にすぎないのです。
「運が良い」「運が悪い」という言葉は、
自分の期待や価値観を基準にした主観的な判断に過ぎません。
その基準を手放したとき、
“運”という言葉そのものが、必要なくなるのです。
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■ 「善悪の知識の実」を吐き出すということ
旧約聖書のアダムとイブは、エデンの園で神と共に生きていました。
彼らは善悪を知る前、ただ“在る”ままに世界を味わっていたのです。
起こるすべての出来事が心地よく、恵みとして感じられていました。
しかし「善悪の知識の実」を食べた瞬間、
「これは良い」「これは悪い」という判断が生まれ、
人間は楽園を追われました。
私は、この「善悪の知識の実」を吐き出した人間だと感じています。
つまり、起きた出来事を“良し悪し”で裁くことをやめたのです。
その瞬間から、私の世界は再びエデンのように穏やかになりました。
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■ 何が起きても「良いこと」になる世界
今の私は、どんな出来事が起きても、
それが最善への導きであると感じています。
嬉しいことや悲しいことは確かに起こります。
しかし、その奥には常に静かな実感があります。
「これで良かったのだ」と。
それは温かくも冷たくもなく、
ただ完全な流れの中にいる確信だけが残ります。
そのため、私はどんな出来事も“良いこと”として受け取ります。
「不運」「失敗」といった言葉は、
もはや意味を持たなくなりました。
結果として、「運」という概念そのものが、消えていったのです。
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■ 運の代わりに残った言葉、それは「感謝」です
もし「運」という言葉の代わりに何かを置くとすれば、
それは感謝です。
「運が良かった」ではなく、「ありがたい」。
「運が悪かった」ではなく、「学びを得た」。
感謝は、出来事を裁きません。
ただ、受け入れ、味わいます。
それは、エデンの園でアダムとイブが神の恵みを感じていたように、
現世にいながら大いなる存在の恵みを味わう状態に近いのだと思います。
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■ 現世における「エデンの再現」
エデンの園とは、過去の神話ではなく、
意識のあり方そのものです。
私にとってのエデンとは、
「何が起きても恵みとして受け取れる心の状態」です。
ですから、私は現世を生きながら、
“運”という言葉を必要としない地点に立っています。
そこにあるのは、
ただ一つ——
感謝です。
【運という概念は実は存在しない】— 感謝だけが残る世界へ —
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