ある日、僕は夢の中で、とてつもないアイデアを渡された。
目が覚めると同時に、僕はそれを整え始めた。
排泄欲求すら後回しにして。
食事も忘れ、SNSも開かず、ただ整え続けた。
なぜならそれは、僕にとって「欲しい」ものではなかったからだ。
ただ、「整えなければならない」と感じただけ。
まるで命じられたように。
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欲望ではない行動原理
この衝動は明らかに“欲望”とは異なる。
僕にとってそれは、報酬でも評価でもなく、
ただ「通されただけ」の何かだった。
誰のためでもなく
自分のためですらなく
ただ“世界に通す”ための整理
このような状態を、人はときに「創造」と呼ぶ。
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器とは「空であること」
現代の人々の多くは、
日々の仕事、人間関係、将来の不安、SNSでの評価、
それらを握りしめすぎている。
言い換えれば――
器はあるが、既に満杯なのだ。
どんなに美しい液体が上から注がれても、
器が満ちていれば、それはただこぼれ落ちるだけ。
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「受け取る」という概念と技術
多くの人は「受け取る」という概念を持たない。
受け取る前に、自分で作り、自分で意味づけし、
自分で評価しようとする。
でも、本当の創造とは――
自分で作ることではない。
“通されること”に身を預けることだ。
そのためには、
余白が必要で
静けさが必要で
無垢で透明な構えが必要になる
—
すべての人の上に、すでに降り注いでいる
結論として、僕はこう断言したい。
> 創造の源、
アイデアの原液、
驚くような閃きや深い思想は、
実は誰の上にも、平等に降り注いでいる。
降りてきていないのではない。
受け取る準備ができていないだけ。
器が空いていないだけ。
手を握りしめたままだから、持てないだけ。
—
最後に
現代という時代は、
「掴む者」が偉く、「待つ者」が怠け者のように扱われる。
しかし、創造の真理はその逆にある。
待ち、整え、空にし、透明である者にこそ、
“見えない何か”は流れ込む。
誰でも器にはなれる。
整え、空け、透明になるならば――
あなたのもとにも、必ず“あれ”は降りてくる。
そしてそれは、
言葉にできないほど、美しいものだ。
【続編】創造の源は誰の上にも平等に降り注いでいる 〜透明な器になるということ〜

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