こんにちは。
今日も蛇口をひねったら、水が出ました。
ありがとうございます。
……って、誰に言ってんの?????
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◆ 自己啓発YouTubeあるある:「感謝すべき」「当たり前に感謝しろ」
よくあるんですよ。
「毎日、目が覚めることに感謝」
「水が飲めることに感謝」
「働けることに感謝」
「すべては当たり前じゃない。ありがたいことなんだ」
──はいはい、言ってることは分かるよ。
でも、こう思いませんか?
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> 「で、誰に感謝すればいいん?」
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◆ 感謝とは「してしまうもの」であり、「すべきもの」ではない
これは個人的な哲学なんですが、
感謝って“自然と出るもの”であって、“義務”ではないんですよ。
呼吸するように、つい「ありがたいなぁ」と思ってしまう。
これが感謝の自然な形。
でも自己啓発って、「感謝しなさい!」って言うでしょ?
そんな強制されたら、逆にしにくいんだよ。
そして言葉にしようとすると、こんな“地獄”が始まるんです。
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◆ 例:蛇口から水が出たことに対して感謝の手紙を書いてみた
▼ 水道工事の人へ:
> 拝啓、いつもお世話になっております。
このたび、蛇口をひねったら水が出てきました。
これはあなたが水道工事をしてくれたおかげです。
本当にありがとうございました。
→ 返信:いや、どちら様?????
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▼ 不動産屋さんへ:
> 拝啓、物件紹介ありがとうございました。
今日、蛇口をひねったら水が出ました。
あなたがこの家を紹介してくれたからです。感謝しております。
→ 返信:営業メールかとおもったらなんか違った。こわい。
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▼ 社長&上司へ:
> 拝啓、いつもお世話になっております。
本日、家の蛇口から飲水が出た件について、
感謝を申し上げます。
これはあなたがたが私を雇ってくれたおかげで、
家賃が払え、水道が使えているからです。
ありがとうございます。
→ 返信:えっ…なに?辞めるの?病んでる?それとも宗教?
→ 上司:「あれ、俺、水道局だったっけ…?」
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◆ あまりにも真実すぎて“宗教の香り”がしてくる
ここが本当に怖いポイント。
嘘もない
盛ってもいない
ただただ感謝の気持ちを言葉にしただけ
なのに……めちゃくちゃ不気味になる。
なぜか?
それは、社会というのは“言葉にされない感謝”を前提に回ってるから。
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◆ 結論:もう神に感謝しとけ
いっそもう、こうしましょう。
感謝の行き先がない
誰に言えばいいか分からない
伝えようとすると、相手が引く
でも気持ちはある
──だったら、人間じゃない“なにか”に感謝すればいいんじゃない?
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それが神でも、宇宙でも、重力でも、森羅万象でもいい。
「なにか」分からなくていい。
分からなさは、平等なんです。
むしろ、“わからないまま”感謝を送ること自体が、
美しい心の習慣なんじゃないかと。
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◆ 独り言でいい。心の中だけでもいい。
大げさな儀式もいりません。
独り言でいいんです。
「ありがたいなあ」
「今日も水が出たなあ」
「なんかよく分かんないけど、ありがとう」
それだけで、
ふっと気持ちが軽くなったり、
じんわり幸せを感じたりする。
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◆ 自己啓発より効く、「静かな感謝」という処方箋
というわけで、
「感謝しろ!」と大声で言われたら、
そっと心の中でこう返してやりましょう。
> 「ああ、もうしてるよ。誰にともなくな。」
そして、静かに蛇口をひねって、
今日も透明な水が出てくることに、微笑んでみるんです。
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◆ まとめ
感謝は“すべき”ものではなく、“してしまう”もの
感謝を伝えようとすると、社会構造の闇が見えてホラーになる
いっそ、神(的な何か)に感謝するのが一番自然
でも神を信じてなくても、感謝はできる
独り言でいい。心の中だけでいい。それだけで世界がちょっとあったかくなる
【感謝ごっこはもうやめよう】「蛇口から水が出るのはすごいこと」って言うけど、誰にありがとうって言えばいいんだよ問題

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