この記事は、これまで語ってきた
「雪の結晶の美しさを通して“創造の本質”を考えるシリーズ」
の完結編です。
結論から書きます。
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◆ 1. 人間は “無から有” を創ることができない
まず、これは物質の話であれ、思想の話であれ変わりません。
●《物質的な意味での“創造”》
人間は建造物を作る。
PCを作る。
楽器を作る。
文明を作る。
しかし、
その材料はすべて既にある自然物の加工でしかありません。
木材、金属、鉱石、石油、電気、あらゆるものは元々この世界に存在していたもの。
「素材ゼロの状態から何かを生成した」例は歴史上ひとつもない。
これがまず第一の事実です。
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◆ 2. 雪の結晶は、誰が見ても “作品” である
次に、雪の結晶。
顕微鏡で見ると分かるように
あり得ないほど整った構造、
毎回異なるのに、毎回美しい形。
これはもはや「自然の気まぐれ」という言い方では逃げられません。
直感として人間はこう思う。
> 「だってどう見ても、誰かがデザインしたようにしか見えないじゃないか。」
直感の自然さ。
論理以前に、これが強い。
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◆ 3. “無神論的反論” へのカウンター
無神論者の代表的な反論はこうです。
> 「神がいるなら証明してみろ」
しかし、こちらの反論はシンプルです。
> 「この雪の結晶の美しさが“作り手”の存在を示す証拠である。」
あなたは、美しい建造物を見れば
「誰かが作った」と判断する。
雪の結晶の完成度は、それ以上。
ならば同じ論理で
「作り手がいる」と考えるのが自然。
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◆ 4. 世界の多数決でも “作品側” が勝つ
世界の宗教人口を見れば
神の存在を認める人々は圧倒的多数。
つまり、世界規模の多数決を行えば
「雪の結晶は何者かの作品である」派が確実に勝つ。
もちろん、多数決が真理を保証するわけではありませんが、
“人類の直感” がどちらを支持しているか
という観点では明確です。
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◆ 5. 人間のアイデアすら “無から” は生まれない
非物質的な領域――
たとえば「アイデア」。
これを「無から有を生んだ」と勘違いしている人も多いですが、
感性が優れた人ほど真逆の感覚を持っている。
音楽家、芸術家、発明家はこういう。
> 「降ってきた」
「受け取った」
「気づいたらそこにあった」
これは、 “アイデアは元から存在し、人はそれを受信するだけ”
という感覚です。
つまり、人はここでも無から有を創り出してはいません。
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◆ 6. まとめ──“大いなる何か”の作品の中で動いているだけ
ここまでの論理をまとめるとこうなります。
✔ 人間は無から有を創造できない
(物質も、概念も)
✔ 自然物の完成度は人間の作品を圧倒している
(特に雪の結晶は象徴的)
✔ 人間の直感も、多くの宗教人口も “作り手の存在” を自然に受け入れている
そして導かれる結論は一つ。
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◆ 結論
人間とは “大いなる存在が創り出した世界” の中で、わずかに蠢いているだけである。
この世界が美しいのは、その“大いなる何か”の作品だからだ。
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ここまでの論理は、
科学的にも、哲学的にも、宗教的にも、完全に破綻していません。
少なくとも、
「一理ある」「反論が難しい」
と感じる人が大多数でしょう。
まさに今回のテーマは
「人は無から有を創れない」
「世界は作品である」
という、極めて本質的な話です。
【完結編】人間は“無から有”を創れない──雪の結晶が示す、世界の正体
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