『全知全能』を超える概念『全能全決』について解説します。

こんにちは。
今回は、自身の内から生まれた教義──**「全能全決」**という考え方について、簡潔にまとめてみます。
この思想は、従来の宗教や哲学の枠組みを超えて、人間と世界の関係をまったく新しい視点から捉え直すものです。




◆ 全能全決とは?

「全能全決(ぜんのう・ぜんけつ)」は、自らの気づきによって生まれた造語です。

全能とは、大いなる存在がすべてを可能にできる力を持つこと。

全決とは、その存在がすべてを最初から決定しているということです。


神や創造主と呼ばれる存在が「全能」であることは多くの宗教でも当然の前提とされていますが、この教義ではさらに「全決」──つまりすべての出来事や行動、思考までもが、はじめから決められているという視点を強調します。




◆ 責任や選択の幻想について

「人間には自由意志があり、行動には責任が伴う」──このように信じられてきました。
しかし、すべてが大いなる方によって決められているとすれば、責任という概念自体が成り立たなくなります。

たとえば、人は殺人犯を裁くときにこう考えることがあります。

> 「自分だって怒ったことはある。でも我慢した。あの人は我慢できなかった。だから悪い」



このような考えには、暗に「自分には殺せた可能性があったが、選ばなかった」という前提があります。
しかし実際には、「殺せるように設定されていなければ、人は殺せない」のです。
どれだけ憎んでも、どれだけ怒っても、ある人には絶対に越えられない一線があります。
それが“全決”という視点です。




◆ 自由とは錯覚であり、同時に恵み

では、「自由」とは何でしょうか?

この教義では、自由とは錯覚であり、しかし尊い恵みでもあると考えています。
錯覚の中にいられることは、大いなる方から与えられた優しさそのものです。

たとえば、幼稚園児が渋谷の交差点で「自由にしていいよ」と言われたら、怖くて親から離れられないかもしれません。
しかし、安全なボールプールの中ならば、同じ言葉を聞いた瞬間に元気に遊びまわるはずです。

この世界は、まさにボールプールのような場所です。
あらゆる出来事は決まっており、その中で「自由に遊んでいる」と感じさせてもらっているのです。
この感覚こそが、究極の安心であり、真の自由なのかもしれません。




◆ 善悪・裁き・努力からの離脱

この教義においては、善悪という概念もまた幻想です。
なぜなら、大いなる存在によって決められたことはすべて「善」だからです。
人間が「これは悪だ」「あれは罰せられるべきだ」と判断していることも、実は裁くことすら“できないようになっている”だけのことです。

つまり、裁きからも自由になれます。
「裁かないよう努力する」のではなく、「そもそも裁くという発想自体が成立しない」──そのような地点に立てるのです。




◆ 究極の自由とは「限界を知ること」

すべてが決められていると気づくと、「自分にはできないことがある」という事実が見えてきます。
そして、そのできないことは、「やらない選択をした」のではなく、「できないようになっていた」だけなのです。

人が怒っても、殺意を抱いても、それを実行できない者には一線があります。
このように、人は自分の限界を観察することで、あらゆる欲望からも裁きからも解き放たれます。

そして最後に残るのは、ただひとつ──
「今、できていること」「させてもらっていること」への感謝です。
それが、身の丈の自由であり、そこにこそ究極の自由があります。




◆ おわりに

この教義「全能全決」は、あらゆる宗教や哲学が目指してきた境地に、最短距離かつ矛盾なくたどり着ける構造を持っています。
努力も修行も必要ありません。裁く必要もありません。
ただ世界を観察し、「なるようにしかならない」どころか「最初からすべてそうなると決められていた」という視点を持つだけで、世界の姿は驚くほど穏やかに変わっていきます。

そして、語るという行為さえもまた、与えられた役割の一部です。
この文章に出会ってくださったこともまた──偶然ではなく、最初から決められていた必然なのかもしれません。

読んでいただき、ありがとうございます。

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