「200円の白菜は、本当に普通だったのか?」

はじめに

「大地の恵み」という言葉があります。 一見すると美しく、どこか情緒的で、自然に感謝するための言葉のように聞こえます。

しかし今回は、この言葉を美辞麗句として扱うのではなく、 **現代社会の構造を読み解くための“事実記述”**として考察してみます。




大地の恵みは、感じる人と感じない人がいる

農作物を作ったことがない人にとって、 野菜とは「お金を出せば必ず手に入るもの」です。

そこには、 天候・不作・病害・失敗といった不確実性が見えません。

結果として、 大地の恵みという概念は、日常生活から切断されます。




非農家が感じる唯一の変化は「価格」

消費者が野菜について感じ取れる変化は、ほぼ価格だけです。

白菜が1000円なら「高い」と嘆く

白菜が200円なら「このスーパーは努力している」と評価する


しかしここには、 大地も、天候も、生産者の事情も登場しません。

評価の対象は、 常に“人間の行為”だけです。




米が高くなると、必ず「誰かのせい」になる

米の価格が上がったときも同じ構図が見られます。

政治家が悪い

行政が失敗した

誰かが買い占めた


このとき、 「大地の条件が悪かった」という説明は、ほぼ採用されません。

なぜなら、 大地は責任主体になれないからです。

人は、怒りや不満を向けるために、 必ず“人間”を原因に据えたがるのです。




実は200円の白菜の方が異常だった

ここで一度、視点を反転させてみます。

埼玉県のスーパーで、 群馬県産の大きくて重たい白菜が一株200円で売られていたら、 小学生でもこう思うでしょう。

「え、こんなに安くて大丈夫なの?」 「トラックで運んできたんでしょ?」 「誰が儲かるの?」

これは道徳ではなく、 物理的・現実的な疑問です。

冷静に考えれば、 200円で成立していたこと自体が、むしろ例外的だったとも言えます。




価格に含まれていないもの

野菜の価格には、次のような要素が含まれています。

生産者の努力

失敗のリスク

天候という運

流通・輸送のコスト

廃棄や規格外の存在


これらが偶然うまく噛み合ったとき、 初めて「安い価格」が成立します。

つまり安さとは、 常態ではなく、条件が揃った結果なのです。




それでも300円で「高い」と言ってしまう理由

白菜が200円から300円になっただけで、 反射的に「高い」と言ってしまう。

これは金銭感覚の問題ではありません。

重さ

距離

人手

燃料


といった成立条件を、 一切思い浮かべずに価格だけを見る状態。

この状態を、私は「正気ではない」と表現します。

侮辱ではありません。 認知の話です。




正気とは何か

正気とは、 感謝深いことでも、優しいことでもありません。

ただ、

「これ、どうやって成り立っているんだろう?」

と、一瞬でも考えられること。

それだけです。




運というパラメーター

世界には、人間が制御できない要素が必ず存在します。

天候、病害、偶然、巡り合わせ。

これらを私は「運」と呼びます。

運は、排除すべきノイズではありません。 世界が閉じきらないための必須要素です。




感謝について

私は、大地に(いや、世界に)感謝します。

美味しい物を食べることが好きだからです。






おわりに

安さを当然と思える社会は、 すでに誰が運んでいるかを見なくなっています。

価格だけで世界を語れると思った瞬間、 人は正気を失います。

これは思想ではなく、 現実の話です。

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