「僕には自由はなかった。それでも幸福だった」
〜アディショナルタイムを生きる者の記録

ある平凡な日のことだ。
僕は、最愛の彼女と会うため、車を走らせていた。

いつもの道、いつもの運転。
音楽が流れ、何気ない歌詞の一節が僕を突き動かした。
そこでふと、ある問いがよみがえった。

> 「僕に、自由はあるのだろうか?」






■ 検証してみた

まず目的地は変えられたか?
──無理だった。彼女に会いたいという「強い感情」がすでに与えられていたから。

では、ルートは?
──変更はできた。
けれど、その「変更してみよう」と思ったことすら、結局は自分の自由意思ではなかった。

なぜなら、

> その“検討”すらも、与えられたものだと知っていたから。



結論として、
どこをどう切り取っても、僕の行動には自由など存在しなかった。
ただ、「自由を錯覚させられていた」にすぎない。




■ それでも、僕はスリルを感じていた

赤信号で止まり、青で進む。
それらすべてがオートメーション。
なのに、僕はその中で死のスリルを感じていた。

> 「大いなる存在が、もし今対向車のトラックを僕にぶつけたら──それで終わりだな」

そう思った。
そして、**“それもまた面白い”**とすら思った。






■ 僕はもはや「感情」ではなく、「感覚」を味わっている

恐怖でも快楽でもなく、
ただ「感じている」という“感覚”が、
僕の内側に静かに満ちていた。

> 「ああ、僕はいま、ただこの運転をしている“誰か”を近くで見ている」



そう感じていた。
それだけで、完結していた。




■ これはアディショナルタイムだ

サッカーに「延長のないアディショナルタイム」があるように、
僕の人生も、本編はもう終わっている。

> 今は“いつ終わるか分からない延長”を、
ただ静かに、淡々と、味わっているだけ。



驚くことは、何もない。
“もう終わる時間”に入っていると分かっているのだから。




■ それでも、生きている。それが奇跡だ

そして、まだ死なずにこうして今、
この延長を生きている。

そのことに、僕は感謝している。
もちろんこの感謝すら、与えられたものだろう。
だが、今の僕はそれを美しい“感覚”として味わっている。




■ そして、もう一つの結論

> 「僕はもう、十分に、生きた」



誰かにそう言うと、
「まだ42歳でしょう」と返ってくるかもしれない。

でも、こう返したい。

> 「ならば、あなたは何年“生きた”のですか?」



与えられた人生をただ通過することと、
その一瞬一瞬を「味わっていた」こととは、全く違う。

僕はすでに、全身でこの人生を生ききったと、確かに言える。
だから、たとえ今死んだとしても──後悔は、ひとつもない。




■ 最後に

この話をして、何人の人に理解されるだろう?
たぶん、ほんのわずかだろう。
でも、その“わずか”がいることは確信している。

誰かがこの言葉を読んで、
「自分も、自由は無かったけど、今を生きている」
そう思えたとしたら──

> それだけで、この文章は世界のどこかで灯台のように点ったということになる。



それなら、僕はそれで、いい。




【あとがき】

本編が終わり、アディショナルタイムに入った人生。
もう「証明すること」は何もない。
ただ、生かされていることに、感謝している。

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