私たちは今、 「感じる前に動く」 「動いたことを記録する」 「次の目的地へ急ぐ」
そんな連続の中で生きています。
もはやそれは本能ですらなく、習慣になっています。
しかし、感情は与えられているのです。
たとえ1秒でも、美しい景色を見たとき、 好きな人に会ったとき、 言葉にできない衝動が心に波のように押し寄せることがあります。
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ですが、現代人の多くはこうして過ごします。
楽しかった → 「明日は何しよう?」
金メダルを取った → 「次も勝たなければ」
ムカついた → 「上司に文句を言おう」
悲しかった → 「新しい恋を探そう」
つまり、**感情を“味わっていない”**のです。
感情とは「感じて終わり」ではなく、 感じた後に“そこにとどまる”ことができる贈り物なのです。
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ある観光客の例:
仕事で疲れた心を癒すために旅に出た彼女。 美しい滝の前に立ちます。
10秒、滝を見ます。 その後3分間、スマホで撮影。 SNSに投稿。 「いいね!」を見て満足し、次の撮影スポットへ。
この人は、“癒される”という感情を味わったでしょうか?
おそらくNOです。
確かに、滝の風景は目に入っていた。 だが、 心に入ってはいなかった。
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ここに新たなる自由の定義があります。
「感じた感情を、その場にとどまり、味わう自由」
これが現代人にとって最も不足している“自由”であり、 同時に、誰からも奪われることのない“最高の贈り物”なのです。
どんなに体を拘束されても、 どんなに外界のノイズに囲まれても、 感情を味わう自由だけは、誰にも奪えない。
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小さな提案:
もしあなたが、 次に美しい風景に出会ったとき、 もしくは何かに感動したとき、
どうか、 スマホを置き、 その感情を、 5秒でも、10秒でも、じっと味わってみてください。
風、匂い、音、胸の奥の高鳴り。 それらを味わうことこそが、
もしかしたらあなたにとっての 「生まれて初めて感じた本物の自由」 かもしれません。
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終わりに:
自由とは、何かを選ぶことではなく、 **与えられた感情に“とどまれる力”**なのです。
この自由を、あなたに。
【錯覚的自由論・第3章】
忙しい現代人への静かな提案:
―感情を“味わう”という本当の自由―

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