「的を得る」は誤用か?――“矢も射たずに真実に届く”という美しさ

❖ はじめに

「的を射る」という表現があります。
議論の中で核心を突いた発言がなされたとき、人は言います。

> 「おお、それはまさに“的を射た”表現ですね!」



しかし、ここで一石を投じたい。
私たちは本当に“矢”を“射って”いるのでしょうか?

あるいは、もっと静かに、もっと自然に――
「的を得て」いるだけなのではないでしょうか?




❖ 広辞苑の見解:「的を得る」は明確に誤用とされている

まず確認しておきましょう。
日本語の権威『広辞苑 第七版』では、次のように定義されています。

> 【的を射る】
的確に要点をとらえる。
※「的を得る」は誤用。



つまり、広辞苑は明確に「的を得る」を誤用と断じているのです。




❖ 文法的視点:矢は「目的語」、主語は「人」

ここで一度、文法構造に目を向けてみましょう。

「彼が矢を射る」という文の要素を分解すると:

主語:彼(射つ人)

動詞:射る(行為)

目的語:矢(射られるもの)


つまり、「的を射る」の文においては:

主語:発言者(話し手)

動詞:射る(比喩を放つ行為)

目的語:的(核心)


ですが、ここで疑問が生まれるのです。

> 本当に矢を放ったのか?






❖ 本当に“矢”を放っているのか?

実際、多くの場合、
「核心を突く発言」というのは、狙って放った矢ではなく、
自然に湧き上がった“比喩”の吐露です。

つまり、本人にしてみれば
「よし、ここで一発、鋭い例えを放ってやろう!」
などと意気込んだわけではない。

むしろ、その瞬間に**“降ってきた言葉”をただ口にしただけ**なのです。

そう、矢を構えてもいなければ、射ってもいない。
それなのに「的を射たね」と言われると、こんな気持ちになるのです。

> 「え?外す可能性があった前提なの?」
「いやいや、外すわけないじゃん?矢なんか持ってないんだから!」






❖ そこで「的を得る」の登場

ここで改めて、「的を得る」という表現に目を向けましょう。

> 得る(える)=自然に手にする、偶然つかみとる



この言葉には、「放つ」「狙う」「当てる」という意図的な暴力性がない。
それはもっと、静かで、優しい、核心との邂逅(かいこう)。

たとえるなら、こんな場面です。




> 💬「あなたの比喩で、腑に落ちたよ」
🙍‍♂️「ありがとう。何も狙ってないけど、的を得ていたならうれしいな」






つまり、「的を得る」とは――
“相手の理解”という的が、自然に迎えに来てくれた
そんなイメージに近いのです。




❖ 誤用ではない、むしろ“上位互換”である

たしかに、「的を得る」は現時点で誤用とされている。
だが、これは私の新しい造語だと言ってもいい。
もしくは――

> 「“的を射る”の上位互換」



そう表現することもできるのです。

なぜなら、「的を射る」は矢を構え、放ち、外れる可能性すらある。
だが、「的を得る」は狙わずとも的確に本質に触れる。

そこに無理も、無駄も、無駄な力みもない。
それが、**“言葉における静かなる精度”**ではないでしょうか。




❖ 最後に:日本語警察との対峙

もちろん、「的を得る」と言えば、
日本語警察の方がパトランプを鳴らして近づいてくるでしょう。

> 「それ、誤用ですよ。広辞苑にもそう書いてあります!」



そのとき、私は笑顔でこう答えます。

> 「ご指摘ありがとうございます。あなたも日本語を愛しているのですね。
でも、残念ながら相手が悪かった――
私も、それ以上に日本語を愛しているのです。」

、、、2人の楽しい暇つぶしをご想像ください。





❖ おわりに

言葉は正しさだけで使うものではない。
意味が通じ、美しく、納得できるなら、それは“的を得ている”。

たとえ誤用とされても、言葉は生きており、
新しい生命を与えられて生き続ける。

あなたの言葉が、誰かの心の“的”に届いたとき、
それがたまたま得たものなら――
それこそが、ほんとうの「的を得る」瞬間なのかもしれません。

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